ないように思う。もちろんただ通り一ぺんの説明はついている。すなわち振動体の減衰するエネルギーを弓の仕事で補給する、その補給の回数と適当な位相とを振動体の振動自身が調節するというのである。この点では実際ラジオなどに使う真空管とよく似た場合である。
しかしこれだけの説明で満足しないでもう一歩深く立ち入って考えてみると、もういっさいが暗やみになってしまうのである。弓の毛髪と振動体とが複雑な週期的相対運動をしている際に摩擦係数がはたして静的係数と動的係数との間を不連続的に往復しているのか、それとももっと複雑な変化をしているのか、これについてはまだだれも徹底的に研究した人はないようである。
クントの実験でも同様である。あの場合になぜ金属棒は松やにを着けた皮でしごき、ガラス棒だとアルコールを着けた綿布でこするか、この幼稚な疑問に対してふに落ちる説明をしてくれる教師はまれであろう。それにもかかわらず物理学をデモンストレートする先生がたはなかなかこの目前の好個の問題を手に取り上げて落ち着いて熟視しようとはしないのである。
同じく摩擦に関した問題で日常おもしろいと思うものがもう一つある。それは雨の日の東京の大通りを歩いているときにしばしば経験させられることであるが、人造石を敷いた舗道が非常にすべりやすくなることがある。煉瓦《れんが》やアスファルトの所はすべらないのに、適当に泥《どろ》の皮膜をかぶった人造石だとなかなかよくすべる。それがおもしろいことには靴底《くつぞこ》の皮革の部はすべらないで、かかとのゴムの部分だけがよくすべるのである。それでこういう際はかかとを浮かして足の裏の前半に体重を託してあるけば安全だということを発明したわけである。人造石がかわいている場合にはもちろんすべる心配はない。たぶん適当な軟泥《なんでい》の層をかぶっている事が条件であるらしい。しかしもしも軟泥の層が単なるリュブリケーターとして作用しているのなら、何も人造石対ゴムに限る必要はないはずである。それが事実は特に人造石とゴムとの組み合わせによって特別な現象が起こるのであるから、これは必ずしも既知の単純なリュブリケーションの問題として不問に付することはできないように見える。これも一つのまじめな研究題目とすればなりうるであろうし、これを深く追究すれば、元来きわめて不明瞭《ふめいりょう》な「摩擦」そのものの本性に関する諸問題に意外な曙光《しょこう》をもたらすようなことにならないとも限らない。従来はただ二つの物質間の摩擦係数さえ測定されればそれで万事が解決したと考えられていたようであるが、分子物理学の立場からすれば摩擦の問題はまだほとんど空白として残されているようである。もっとも最近における物質表面層の分子状態に関する研究の成果にはかなりに目ざましいものがあるから、遠からず、私の金だらいの場合や靴底《くつぞこ》の場合に対しても、いくらか満足な解釈が得られるであろうと期待される。しかし私の希望するところはだれか日本人でこの方面に先鞭《せんべん》をつけてくれる人があればいいと思うのであるが、日本ではたいてい西洋の学者がまずやり始めて、そうして相当流行問題になって来ないと手を着ける人が少ないようであるから、まず当分はこれらも例の「ばからしい問題」として、私の洗面台とそうして東京の街路の上に残されることであろう。
近ごろネーチュア誌を見ると、コップにビールをつぐ時にビールの泡《あわ》が立つ、その泡の多少を決定する条件が問題になっていて、そうしてその条件中にコップ表面に存する油脂皮膜も問題になっているようである。人間の手を触れる限りの物体にはたいていこの種の皮膜が知らぬ間に付着しているので、ガラスの表面の性質と思っているものが実はこの皮膜の性質であることがはなはだ多い。従ってわれわれ身辺の物理的現象には、この皮膜のいたずらが意外なところまでも入り込んでいるかもしれないのである。
たとえば、これもやはり私の洗面台の問題の一つであるが、前夜にたてた風呂《ふろ》の蒸気が室《へや》にこもっているところへ、夜間外気が冷えるのと戸外への輻射《ふくしゃ》とのために、窓のガラスに一面に水滴を凝結させる。冬の酷寒には水滴の代わりに美しい羽毛状の氷の結晶模様ができる。おもしろいことには、水滴が付着する場合に、一枚一枚のガラスの上のほうと下のほうとで、水滴の大きさや並び方に一定の統計的な相違があることである。これは温度の相違によるか、それともガラスのよごれ方の相違によるかという問題が起こって来る。次の問題は水滴が多量になると、それが自分の重さでガラス面に沿うて流れおりて来る際に、いくつかの水滴が時々互いに合流しきれいな樹枝状の模様を作るのであるが、それがその時々でまたいろいろの模様の変化を示し、しか
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