も同じ時にはおのずから一定の統計的平均の形を示すのである。この合流の統計的方則が何であるか、これを支配する物理的与件が何と何とであるか、これも直ちに発せられる疑問である。ガラスの面の一部を石鹸《せっけん》でこすっておくと、そこだけはこの水滴の凝結に対してまた全くちがった作用をするのである。
ガラス面に水滴の着く事に関してはいわゆる「呼気像」(Hauchbild, breath figure)の問題として従来多少の研究があった。特に近来の表面化学の進歩につれてかなりまで解答の糸口が得られかかったようではある。しかし具体的の諸問題について追究すべき事がらはまだ非常に多い。私の洗面所の問題のごときもその一つであると思われる。
水滴の合流するしかたの統計的方則に関しては現在の物理学はほとんど無能に近いと言っても過言ではない。これに類する多くの問題は至るところに散在している。たとえば本誌(科学)の当号に掲載された田口※[#「さんずい+卯」、第4水準2−78−35]三郎《たぐちりゅうざぶろう》氏の「割れ目」の分布の問題、リヒテンベルク放電像の不思議な形態の問題、落下する液滴の分裂の問題、金米糖《こんぺいとう》の角《つの》の発生の問題、金属単晶のすべり面の発生に関する問題また少しちがった方面ではたとえば河流の分岐の様式や、樹木の枝の配布や、アサリ貝の縞模様《しまもよう》の発生などのようなきわめて複雑な問題までも、問題の究極の根底に横たわる「形式的原理」には皆多少とも共通なあるものが存在すると思われる。すなわちいずれにも「安定、不安定」の問題が係わっているように見えるのである。不安定の入り込む多くの場合には事がらが統計的になるので従来の物理学からはとかく疎外されがちであった。通例こういう場合には「事がらが再起的 reproducible でないから」という口実で、惜しげもなく放棄されて来たのである。なるほど従来の再起的という言葉はいわゆるデテルミニスティックな意味での再起性を意味するものであるから、そういわれるのは一応はもっともらしいようであるが、しかし以上のいわゆる非再起的の場合でも、統計的の意味ではちゃんと決定的再起的である。そうして「方則」も統計的には立派に存在しているのである。翻って従来の決定派の物理学について考えてみても一度肉眼的領域を通り越して分子原子電子の世界に入ればもはやすべての事がらは統計的、蓋然的《がいぜんてき》な平均とその変異との問題にほごされてしまう。のみならず今日ではその統計的知識にさえもある不可超限界が置かれようとしているのである。さてこのような時代にわれわれが物理的統計学についてはたしてどれだけの知識を持っているかというと、これも見方によっては実に貧弱な知識しかもっていない。いわゆる古典的統計法が原子物理学の大海に難破して、これに代わる新しい統計が発明されても、それとこれとの関係もそれぞれの意味もなかなかのみ込めない。それは別問題としたところで、私の眼前のガラスの水滴の合流をいかに統計的に取り扱ったらよいかと思って諸文献を渉猟してみても結局得るところははなはだ少ないのである。それは私が結局何物もないところに何物かを求めているためであろうか。それがそうではない証拠にはちゃんと眼前の事象が存在している。すなわち事象は決してめちゃくちゃには起こっていない。ただわれわれがまだその方則を把握《はあく》し記載し説明し得ないだけである。
私が宅《うち》の洗面所で日常に当面する物理学上の諸問題はまだこのほかにもいくつかある。たとえば湯の温度によって湯げの立ち上がる様子がちがうので、その湯げの立ち方で温度のおおよその見当がつく。これには対流による渦動《かどう》の問題がある。また半ば満たした金だらいの中央にコップの水を注入する時に水面に菊花状の隆起を生じる事がある。これもまた渦動の一問題であるらしい。また半球形の湯飲み茶わんに突然水を放射すると水は器壁に沿うて走り上り、縁から外に傘状《からかさじょう》に広がる、そうしていつまでたっても茶わんには水が満たされない。これについても流体運動の一問題として追究すべき事がらはいくらもある。そうして、これらの問題はいずれも工学上のみならず気象学や海洋学上の重要な諸問題とかなり密接につながっていることはおそらく説明するまでもないことであろう。それにもかかわらず、これら眼前の問題に対していくらかでも知識を得たいと思ってライブラリーを渉猟しても満足な答解を与えてくれるものはまれである。そうかと言ってみずからこれらの多くの問題のどれもに手を着けることは到底不可能である。それで私が今本誌の貴重な紙面をかりてここにこれらの問題を提出することによって、万一にも、好学な読者のだれかがこの中の一つでもを取り
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