二十四年前
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西片町《にしかたまち》に小さな家を借りて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|駿河台《するがだい》の家へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](大正十二年八月、思想)
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 ちょうど今から二十四年前の夏休みに、ただ一度ケーベルさんに会って話をした記憶がある。ほんとうに夢のような記憶である。
 それは私が大学の一年から二年に移るときの夏休みであった。その年の春から私は西片町《にしかたまち》に小さな家を借りてそこに自分の家庭というものを作った。それでいつもはきまって帰省する暑中休暇をその年はじめてどこへも行かずにずっと東京で暮らす事になった。長い休暇の所在なさを紛らす一つの仕事として私はヴァイオリンのひとり稽古《げいこ》をやっていた。その以前から持ってはいたが下宿住まいではとかく都合のよくないためにほとんど手に触れずにしまい込んであったのを取り出して鳴らしていたのである。もっともだれに教わるのでもなく全くの独習で、ただ教則本のようなものを相手にして、ともかくも音を出すまねをしていたに過ぎなかった。適当な教師があれば教わりたかったが、そういう方面に少しの縁故ももたなかったし、またあったにしてもめったな人からは教わりたくもなかった。それでやっぱりいろんな書物にかいてあるひき方を読んでは、ひとりでくふうしながら稽古《けいこ》していた。いつまでもろくな音は出なかったが、それでもそうする事自身に人知れぬ興味はあった。
 適当な楽譜を得るためにはじめには銀座《ぎんざ》へんの大きな楽器店へ捜しに行ったが、そういう商店はなんとなくお役所のように気位が高いというのか横風《おうふう》だというのか、ともかくも自分には気が引けるようで不愉快であったから、おしまいには横浜《よこはま》のドーリングとかいう商会へ手紙で聞き合わしたり注文したりする事にしていた。これは全くの余談であるが、少なくもそのころ、私は音楽が好きであるにかかわらず、音楽に関係している人々からはよい印象を受けなかった。音楽家からも楽器屋の店員からも、また音楽好きの学生からも一つとしてよい印象を受けなかった。
 そのころ音楽会と言えば、音楽学校の卒業式の演奏会が唯一の呼び物になったがこれは自分らには入場の自由が得られなかった。そのほかには明治音楽会というのがあって、このほうは切符を買ってはいる事ができた。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。そのほかにも何かの慈善音楽会というようなものもあって、そんなおりには私にとっては全く耳新しかったいろいろのソロなどを聞く事もできた。
 記憶が混雑して確かな事は言われないが、たぶんそういう種類の演奏会のどれかで私は始めてケーベルさんの顔を見、ケーベルさんのピアノの独奏を聞いたように思う。曲がどういう曲であったかそれも覚えていない。ただ覚えているのは、ケーベルさんが一曲の演奏を終わって、静かに横にからだを向けて、椅子《いす》に腰かけたままじっと耳をすまして楽器と天井の間に往復する音波の反響《リヴァーベレーション》に聞き入っていた瞬間の姿である。聴衆は待ち兼ねていたように拍手をした。ケーベルさんが立ち上がるのも待たないで無遠慮に拍手を浴びせかけた。ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶《あいさつ》した。
 演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を猫背《ねこぜ》に曲げて、時々仰向いたり、軽くからだを前後に動かしたりしているのがいかにも自由な心持ちでそして三昧《ざんまい》にはいっているようなふうに見えた。他の多くの演奏者と対比した時にいっそう何かしら全くちがったいい感じがした。
 まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした。
 平たく言えば私はその時から全くケーベルさんが好きになったのであった。もっともその前からその人がらについて充分な予備知識はもっていたのであるが、一度会って話がしてみたかった。しかしなんの用もないのに無紹介で訪問するのはあまりにぶしつけだと思って控えていた。
 夏休みにヴァイオリンをもてあそんでいるうちにも、私の頭の中のどこかにケーベルさんの顔が浮かんでいたものと見える。どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。
 返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんでいる間もないほどに早く返事が来た。何日の何時に来いとい
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