うのであった。それがどんなに私を喜ばせ興奮させたかは言うまでもない。
 約束の日に白山御殿町《はくさんごてんまち》のケーベルさんの家を捜して植物園の裏手をうろついて歩いた。かなり暑い日で近辺の森からは蝉《せみ》の声が降るように聞こえていたと思う。
 若い男の西洋人が取り次ぎに出た。書斎のような所へ通されると、すぐにケーベルさんが出て来た。上着もチョッキも着ないで、ワイシャツのままで出て来た。そしていきなり大きな葉巻き煙草《たばこ》を出して自分にも吸いつけ私にもすすめた。
 ドイツ語は少しも話せず、英語もきわめてまずかった私がどんな話をしたかほとんど全く覚えていない。ただ私がヴァイオリンを独習している事を話した時に、ケーベルさんは私のもっている楽器の値段を聞いた。それが九円のヴァイオリンである事を話したら、ケーベルさんは突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った。私はそれがなぜそれほどにおかしい事であるかをその時には充分理解する事ができなかった。それにもかかわらず私は笑われても別に不愉快でなかった。かえっていかにも罪のない子供のような笑いにつり込まれて私もわけもなく笑ってしまったのであった。
 次の室《へや》の棚《たな》の上にオルゴールのような楽器が置いてあった。それを鳴らして聞かしてくれたりした。
 その時の話の結果として、ケーベルさんは私のためにある音楽家に紹介状を書いてくれた。それは結局断わられて無効になってしまった。そうして私はとうとう二十年後の今日まで、ほんとうの楽器の扱い方を知らずに過ごして来た。
 しかし私がケーベルさんを尋ねた第一の動機は、今になってみると、ヴァイオリンの問題よりはやはりむしろケーベルさんに会う事であったらしく思われる。考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。
 それきりで私は二度と会って話をした事はない。ただその後に一度|駿河台《するがだい》の家へ何かの演奏会の切符をもらいに行った事がある。その時は今の深田《ふかだ》博士が玄関へ出て来て切符を渡してくれた事を覚えている。これも恥ずかしい事である。その家の門の表札にはラファエル・フォン・コウィベルとしてあった。
 全く夢のようである。
 言葉がもう少し自由であったなら、そして自分がもし文科の学生ででもあったら、私はおそらく、もう少しケーベルさんに接近する機会が多かったかもしれない。
 ケーベルさんがなくなった時に私は昔の事を思い出してせめて葬式にでも出たいような心持ちがした。しかしやっぱりそうしないほうがいいと思ってやめてしまった。どこへ見舞い状を出す先もないと思う事がさびしかった。
 自分のような、みずから求めて世間に義理を欠いて孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな慰藉《いしゃ》であったかしれないと思う。その人がもうこの世にいないと思うのは、なんだか少しさびしい。

 ケーベルさんに笑われた九円のヴァイオリンは、とうの昔にこわれてしまったが、このごろ思い出してまた昔の教則本をさらっている。それにつけて時おりはあの当時を思い出す。そうすると、きっと蝉時雨《せみしぐれ》の降る植物園の森の裏手の古びたペンキ塗りの洋館がほんとうに夢のように記憶に浮かんで来る。
[#地から3字上げ](大正十二年八月、思想)



底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
   1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
   1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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