ったがこれは自分らには入場の自由が得られなかった。そのほかには明治音楽会というのがあって、このほうは切符を買ってはいる事ができた。半分は管弦楽を主とした洋楽で他の半分は邦楽であった。そのほかにも何かの慈善音楽会というようなものもあって、そんなおりには私にとっては全く耳新しかったいろいろのソロなどを聞く事もできた。
 記憶が混雑して確かな事は言われないが、たぶんそういう種類の演奏会のどれかで私は始めてケーベルさんの顔を見、ケーベルさんのピアノの独奏を聞いたように思う。曲がどういう曲であったかそれも覚えていない。ただ覚えているのは、ケーベルさんが一曲の演奏を終わって、静かに横にからだを向けて、椅子《いす》に腰かけたままじっと耳をすまして楽器と天井の間に往復する音波の反響《リヴァーベレーション》に聞き入っていた瞬間の姿である。聴衆は待ち兼ねていたように拍手をした。ケーベルさんが立ち上がるのも待たないで無遠慮に拍手を浴びせかけた。ケーベルさんは少しはにかんだような色を柔和な顔に浮かべて聴衆に挨拶《あいさつ》した。
 演奏していた時の様子も思い出す。少し背中を猫背《ねこぜ》に曲げて、時々仰向いたり、軽くからだを前後に動かしたりしているのがいかにも自由な心持ちでそして三昧《ざんまい》にはいっているようなふうに見えた。他の多くの演奏者と対比した時にいっそう何かしら全くちがったいい感じがした。
 まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした。
 平たく言えば私はその時から全くケーベルさんが好きになったのであった。もっともその前からその人がらについて充分な予備知識はもっていたのであるが、一度会って話がしてみたかった。しかしなんの用もないのに無紹介で訪問するのはあまりにぶしつけだと思って控えていた。
 夏休みにヴァイオリンをもてあそんでいるうちにも、私の頭の中のどこかにケーベルさんの顔が浮かんでいたものと見える。どうしたはずみであったか、とうとう私はケーベルさんに手紙を書いた。理科の一年生だが音楽の修業の事で教えていただきたい事があるから、お暇の時に面会を許してくださいというような事をかいたものらしい。
 返事をもらう事ができるかどうかと危ぶんでいる間もないほどに早く返事が来た。何日の何時に来いとい
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