ような痕《あと》が見える。
きたなく汚れて、それでいて実に美しいものも世の中にはある。ヴェニスの街のような者がそれである。綺麗できたないものは近頃の絵にはいくらでもあるのである。大家の絵にもそれがある。
いわゆるプロ絵なるものはどうしてああ鈍い色彩の間の抜けた構図ばかりしなければならないか了解が出来ない。文部省も内務省もこの点は意を安んじてもいいであろうと思われた。こういう絵を見ては誰でも資本主義を謳歌したくなる。
安井氏の「風吹く湖畔」を見ると日本の夏に特有な妙に仇白《あだじろ》く空虚なしかし強烈な白光を想い出させられるが、しかしそういう点ではむしろ先年の「海岸風景」の方から一層強い印象を受けたような気がした。ともかくもこの日本の白い夏の光は絶望の悲哀といったようなものを含んでいる。それを発見したのは安井氏であるような気がする。
石井氏の「二科同人群像」には単なる似顔の集成でなく、各メンバーの排置のみならずそのポーズや服装によって各自の個性を表現しようという苦心の痕が覗われる。とにかく、このような同人群像を試みるとしてはおそらく最も適任な石井氏が更に研究を重ねてこの絵の完成に勉《つと》められることを希望する。ただ、出来るなら、もう少し動的な排列にしたらどうかと思ったことであった。
二科の彫刻塑像には帝展などのとちがって何となく親しめるものが多い。自分は、彫刻を見た時に何となく両手の掌で撫《な》でてみたくなるようなものならきっといいものだ、という妙な迷信をもっている。二科会の今年の出品中の若干の人間の首などにはやはりそんなのがある。しかしメストロウィークを崩したような大物になると、どうにも自分などのようなものの好意の圏外に飛出してしまう。
美術院はほとんど素通りした。どちらを見ても近寄ってよく見ようというような誘惑を感じるものはほとんどなかった。絵でも人間でも一と目で先ず引き付けられないようなものにはやはり何か足りないものがあるかと思う。美術批評家でも何でもない自分等は、そういう第一印象を無視して無理に職務的に理論的に一つ一つの絵の鑑賞点を虫眼鏡で掘り出す気にはどうにもなれないのである。
横山大観氏の絵だけには、いつでも何かしら人を引きつける多少の内容といったようなものがある。決して空虚な絵を描かない人である。今年の幽霊のような女の絵でも、決して好きに
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