の物語を聞いているうちに震《ふ》り出したのであった。その津田君は今年はもう二科には居なくなったのである。
 回顧室に這入《はい》るとI君に会った。「どうも蒸暑い」というとI君は「絵もアツイ絵ばかりだから」という。
 この室のものはさすがになつかしいものばかりである。斎藤|豊作《ほうさく》氏の「落葉する野辺」など昔見たときは随分けばけばしい生ま生ましいもののような気がしたのに、今日見ると、時の燻《いぶ》しがかかったのか、それとも近頃の絵の強烈な生ま生ましさに馴れたせいか、むしろ非常に落着いたいい気持のするのは妙なものである。坂本|繁二郎《はんじろう》氏のセガンチニを草体で行ったような牛の絵でも今見てもちっとも見劣りがしない。安井氏のを見ると同氏帰朝後三越かどこかであった個人展の記憶が甦《よみがえ》って来て実に愉快である。山下氏のでも梅原氏のでも、近頃のものよりどうしても両氏の昔のものの方が絵の中に温かい生き血がめぐっているような気がするのである。故関根|正二《しょうじ》氏の「信仰の悲み」でも、今の変り種の絵とはどうもちがった腹の底から来る熱が籠っていると思われる。すべての宗教には陰惨なエロチシズムの要素をもっているということをこの絵が暗示しているように思われる。中川|一政《かずまさ》氏の素朴な静物も今日よく見直してみてもやはり何とも説明し難い実に愉快なすがすがしさをもっている。これらの絵はみんな附焼刃でない本当に自分の中にあるものを真正面に打出したものとしか思われない。これに反して今時の大多数の絵は、最初には自分の本当の感じから出発するとしても、甚だしいソフィスチケーションの迂路《うろ》を経由して偶然の導くままに思わぬ効果に巡り会うことを目的にして盲捜りに不毛の曠野《こうや》を彷徨《ほうこう》しているような気がする。青く感じたものは赤く塗り、丸く見えたらいびつに描くというような概念的機械的方法によって製作しているのではないかという疑いが起るのは、やはり許してもらう外ない。
 近頃の絵は概して「きたない」のが多い。九月二日に日比谷交叉点で、ひどい皮膚病に冒された犬を見た。犬は自分の汚さは自覚していないが、しかし癢《かゆ》いことは感ずるから後脚でしきりにぼりぼり首の周りを掻いていた。近頃のきたない絵もやはり自分のきたなさは感じないがその癢さを感じてぼりぼりブラシで引掻いた
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