行かない。これは好きな人に取っては好きな特徴となるに相違ない。しかしこの人のような絵はじきに行き詰ってしまうような事が無いからその点が頼母《たのも》しいと思う。

 石井氏の絵は、いつも、常識的という評を受けるようである。頭のいい、要領のいい点は、そういうところもあるだろうが、そうばかりとも思われない。一種の淡白な味を味わってみる事は虚心な鑑賞家に取って困難ではないだろう。この人の絵をだんだんに突きつめて行くと、結局マルケエなどのような方面へ行きはしないかという気がする。

 津田氏の日本画は一流のものであるが、今年の洋画はただの一点で、それがあまりに投げやりである。

 鍋井《なべい》氏の絵は少し変ったようである。こういう絵も自分はわりに好きな方ではあるが、ただ変るところまで変る途中にあるような気がした。来年を楽しみにしている。

 横山氏の絵はかなりうまいと思うが、好きにはなれない。これは趣味の相違で仕方がない。この人の絵は、とにかく一通り行くところまで行って、行き止まっているような気がする。こういうたちの絵は、じきにそういう風になりやすい。一体に表現的な芸術はそうだろうと思う。絵を描くよりも、表現すべき自己を開拓する方の努力がもっと重大である。それがためには、しばらく絵筆をすてて物に親しむ事に多くの時を費やす必要がある。

 海老原《えびはら》氏の変った絵がある。こういう種類の絵が、作者にどれほど必然であるか、が何時でも自分には分らない。例えばルソオなどという人はおそらく、ああいう絵より外の絵は描けなかった人だろうと思うが。――とにかく形式はルソオのようなところはあっても味はまるでちがうと思う。

 田中豊三郎氏の人物二枚も随分変っている。しかしこの人のには、どこかしらこの人のオリジナルティがある。誇張したようなところにもどこか素直な、のびやかなところがあると思う。だんだんに善いところと悪いところを篩《ふる》い分けて進むといいかと思う。

 上山《かみやま》氏の「金魚と花」というのがある。こういう絵は虚心で見ると面白いところもあるが、しかし、自分は、何となく欺《だま》されるのではないかという気がして困るのである。それはとにかく、こういう絵は、もう少し清潔に仕上げた方がよくはないかと思う。絵具をのせる地質の研究が要る。

 恒川《つねかわ》氏の風景画には、ちょっ
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