と南画のような味がある。しかしこういう絵もこのままではすぐ行き詰りになりやすい。
 円筒形の上の断面を楕円形に表わして、底面の方は直線でかいてしまう事が流行するようである。こういう流行は永くはつづくまい。

「天然」と絵具だけからは絵は生れないし、「自己」と絵具ばかりからも絵は生れない。自己と天然と真剣に取組み合わなければ駄目だと思う。昔は天然と絵具だけで出来た無意義な絵が多かったが、近頃は反対に自己と絵具だけの空虚な絵が多くなった。こういう絵にとっては自己がどんな自己であるかが生命である。それを充実させるためには、やはり天然の資料を豊富に摂取する事が須要《しゅよう》である。資料の供給の無い自己はやがて空虚になる。そして空虚な自己の表現は芸術にならない。

 林|武《たけし》氏の絵は今年はあまりふるわない。しかし、こういう風に、いい加減なところで収まってしまわないで、何かしら煩悶しているような未成の絵は、やはり頼母しいという感じを起させる。不出来でも何でも、とにかく自分の絵を描こうとしているように見える。フランス人の画を見てすぐに要領を修得したような軽薄な絵を見るよりは数倍気持がいいと思う。

 未来派の絵というと、ギタアが出て来るのは、あれはどういう理由によるのだろうか。他にも同等もしくは以上に適当な題材はいくらでもあるだろうが。

 中川|紀元《きげん》氏の裸体画を見ていると、何だかある甲虫を聯想するが、何だという事が、はっきり思い出せない。この聯想はあるいは主としてあの女の右の足から来るのかもしれない。この絵などが、自分にはあまり楽しめない方の部類に属する。

 展覧会によっては、殊に日本画の展覧会などでは、とても二目《ふため》と見る気のしない絵が随分あるが、二科会などでは、そんなのはあまり多くは出会わないようである。これは世辞ではない。

 展覧会の評というと、徹底的に賞めちぎるか、扱《こ》き下ろすかどっちかにしないと、体をなさないかもしれないが、これは批評でも何でもないのだから、こんな甘い、だらしのないものになっても致し方がない。[#地から1字上げ](大正十三年十月『明星』)



底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1997(平成9)年7月7日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「明星」
  
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