。そういう点で、これらの絵は、有り来りの油絵よりは、むしろ東洋画に接近しているかもしれない。
この人の絵には詩が無いという人もあるが、強《あなが》ちそうでもないと思う。少なくも今年の花や風景には、たしかに或る詩と夢がにじんでいる。忠実に自然を掘り返していれば、そこから詩の出て来ないという法はない。
裸体も美しいが、ずっと遠く離れて見ると、どこかしら、少し物足りない寂しいところがあるように感ずる。何故だか分らない。人体の周囲の空間が大きいせいかもしれない。
山下氏の絵は、いつでも気持のいい絵である。この人の絵で気持の悪いという絵を自分はかつて見た事がない。この人の絵は、どこかしらルノアルとモネエと両方を想い出させるようなところのある絵だと思う。しかしあまり強い興奮を感じさせられる事のないのはどういう訳だろう。あまり何時でも楽々と画かれているように見えるせいかとも思う。
楽にかいてあるようで、実は恐ろしく骨の折れたと思われる絵がある。安井氏のがそれである。これと反対に恐ろしく綿密で面倒臭そうで、描いている人は存外気楽で、面白くてたまらぬような絵があるとすれば、それは横井弘三氏のである。ルノアルなどは、ちょっと見ると気楽に描いているようだが、また恐ろしく神経を使っているようにも思われるのだが、横井氏のはそれともちがう。
椎塚《しいづか》氏の綿密な静物が私に与える感じは、丁度グロテスクの感じと実質的に同じ感じである。それは必ずしもグロテスクな題材を取扱ったものでなくても、そうである。
これと反対に、例えばザッキンの妙な人形の絵など、随分形式的にはグロテスクに出来ているが、感じの内容には、どこかある明るさと愉快さがある。
ロオトの絵がある。どこがいいのかよくは分らない。この人のに似通った日本人の絵も沢山あるようだが、でも、この人のにはどこかに、こせこせしない、のびやかなところがあるような気がする。少し思い切って遠く離れて見ると一層そんな気がする。
アスランでもビッシェルでも、出来不出来は別として、やはりその人の絵になっていると思う。そして妙に焦《あせ》ったようなところの見えないだけは気持がいい。
正宗《まさむね》氏の絵が沢山ある。自分はどうした訳か、この人の使用する青や緑と朱や紅との強い対照の刺戟が性に合わないせいでもあるか、どうも親しみを感じる訳に
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