二科会その他
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)広重《ひろしげ》の版画

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中川|紀元《きげん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)すし[#「すし」に傍点]
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 安井氏の絵はだんだんに肩の凝りが解けて来たという気がする。同時にだんだん東洋人らしいところが出て来るように見える。もう一歩進むと結局南画のようなものに接近する可能性を持っているのではないかと思われる。あの裸体の少女でも、あれを少しどうかすると支那画の童子のような感じが出そうである。
 そう云えば、すぐ隣りにある山下氏の絵にもやはり東洋人が顔を出している。雪景色の絵などはどこか広重《ひろしげ》の版画の或るものと共通な趣を出している。
 津田君の小品ではこの東洋人がむき出しに顔を出している訳である。

 坂本氏の絵がかなり目立っている。これに対する向い側の壁に大分猛烈な絵が並んでいるので、コントラストの作用で一層この人の絵が静かに上品に見える。しかし自分には何だか完全に腑《ふ》に落ち切らない一種の物足りなさが感ぜられる。この上品さを徹底させると結局何も描かないのが一番上品だという事も云われる。何かしらこの淡泊の中にしっかりした「しめくくり」が欲しいような気がする。海岸に岩がころがっている絵があると思って、目録を見たら「柿」としてあった。

 正宗《まさむね》氏と鍋井《なべい》氏の絵を見ると、かなり熱心に自分の殻を突き破る事に努力しているという事が感ぜられる。しかしあまりあせり過ぎては、却って自分にある好い物を捨てて自分にないものを追っかける恐れがありはしないか。画家の絵の転機はやはり永い間に自然に起って来るものがほんとうにその人に取って純真なものではないだろうか。毎年の展覧会に必ず変化を見せる必要はないかと思う。

 ブラマンク張りの絵が沢山《たくさん》出ている。私は二科会で何故こういう明白な模造を陳列させるかがどうしても解らない。
 その他にも大分同類がある。同じ人で静物は甲の仏人、人物は乙の仏人といったように真似の使い分けをしているのもある。

 椎塚《しいづか》氏の絵には何時もながら閉口するが、しかしこの人は、別にこれらの絵を人に見せて賞めてもらうために描いているらしく見えないところを
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