頼もしく思う。
 この人の絵を見ていると、日常見馴れているものの中に潜んでいるグロテスクな分子を指摘される。天プラや、すし[#「すし」に傍点]などがあんなに恐ろしい鬼気をもって人に迫り得るという事を始めてこの画から教えられる。
 このままでだんだんに進んで行くところまで行ったら意外な面白いところに到達する可能性があるかもしれない。

 中川|紀元《きげん》氏の今年の裸体は去年のほどおぞましく恐ろしくはない。わざとらしさが少しけ抜けたせいか、それとも此方《こちら》の眼が少し教育されて来たせいかもしれない。しかしこういう絵には、そういつまでも同じようなものを描き続け得られないだろうと思わせるある物がある。

 院展もちょっと覗いてみた。
 近藤|浩一路《こういちろう》氏は近年「光」の画を描く事を研究しているように見える。ただそれを研究しているという事が何より先に感ぜられるので、楽しんで見るだけのゆとりが自分には出て来ない。
 大観《たいかん》氏の四枚の絵は自分には裾模様でも見るようで、絵としての感興が沸いて来ない。氏はいつでも頭で絵を描いているのを多とするが、しかし頭と心臓と両方が出ないとどこか物足りない。
 龍子《りゅうし》氏ももう少し心臓の方を働かせて描いてほしい。
 芋銭《うせん》氏の絵には時々心臓が働いているように見えるのを頼もしく思う。今年のはあまりはえないが。
 心臓もなければ脳味噌さえもない絵の多い事を残念に思う。もう少し数を減らせて、そして絵は下手でもいいから何かしら味のあるアマチュウアの絵でも加えたらどうであろうか。
 大きな屏風に梅の化物を描いたのがある。実に不愉快な絵だと思う。不自然の醜さという事のデモンストラチオンに使用されるに恰好なものと思う。

 ついでに仏展も見物する。
 近代画家の絵には随分つまらないのや乱暴なのがあるが、しかしどんな変なものでもどこかのびやかな自由さを持っている。フランス人がフランス人の絵を描いているせいだろうかと思う。これを日本人が真似したところでそののびやかさ自由さが出るはずがない。素人にはこれほど自明的な事はないと思われる事が専門の画家にはどうして感ぜられないかという気がする。
 モロオの絵がある。この人もオリジナルな人である。この人の習作や沢山の未成の絵を並べて、そして一夜漬けの模造品を雑作もなく塗り上げる人達に
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