る。
 当時は「明治文庫」「新小説」「文芸倶楽部《ぶんげいくらぶ》」などが並立して露伴《ろはん》、紅葉《こうよう》、美妙斎《びみょうさい》、水蔭《すいいん》、小波《さざなみ》といったような人々がそれぞれの特色をもってプレアデスのごとく輝いていたものである。氏らが当時の少青年の情緒的教育に甚大《じんだい》な影響を及ぼしたことはおそらくわれわれのみならずまたいわゆる教育家たちの自覚を超越するものであったに相違ない。
 たしか「少年文学」と称する叢書《そうしょ》があって「黄金丸《こがねまる》」「今弁慶《いまべんけい》」「宝の山」「宝の庫《くら》」などというのが魅惑的な装幀《そうてい》に飾られて続々出版された。富岡永洗《とみおかえいせん》、武内桂舟《たけうちけいしゅう》などの木版色刷りの口絵だけでも当時の少年の夢の王国がいかなるものであったかを示すに充分なものであろう。
 これらの読み物を手に入れることは当時のわれわれにはそれほど容易ではなかった。二十銭三十銭を父母にもらい受ける手数のほかに書店にたのんで取り寄せてもらう手続きがあった。しかし何度も本屋へ通《かよ》ってまだかまだかと催促してやっと手に入れたときの喜びはおそらくそのころのわれわれ仲間の特権であったかもしれない。
 当時の田舎《いなか》の本屋はいばったものであったような気がする。われわれは頭を下げて売ってもらっていたような感じがある。これは当然であったかもしれない。少なくもわれわれにとって書物は決して「商品」ではなかった。それは尊い師匠であり、なつかしい恋人であって、本屋はそれをわれわれに紹介してくれるだいじな仲介者であったわけである。
 読書の選択やまた読書のしかたについて学生たちから質問を受けたことがたびたびある。これに対する自分の答えはいつも不得要領に終わるほかはなかった。いかなる人にいかなる恋をしたらいいかと聞かれるのとたいした相違はないような気がする。時にはこんな返答をすることもある。「自分でいちばん読みたいと思う本をその興味のつづく限り読む。そしていやになったら途中でもかまわず投げ出して、また次に読みたくなったものを読んだらいいでしょう」大根が食いたくなる時はきっと自分のからだが大根の中のあるヴィタミン・エッキスを要求しているのであろう。その時われわれは何も大根を食うことの必然性を証明した後でなければ
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