それを食っていけないわけのものではない。また友人のIが大根を食ってよろずの病を癒《い》やし百年の寿を保つとしても、自分がそのまねをして成効するという保証はついていない。ある本を読んで興味を刺激されるのは何かしらそうなるべき必然な理由が自分の意識の水平面以下に潜在している証拠だと思われる。それをわれわれの意識の表層だけに組み立てた浅はかな理論や、人からの入れ知恵にこだわって無理に押えつけねじ向ける必要はないように思われる。人々の頭脳の現在はその人々の過去の履歴の函数《かんすう》である。それである人がある時にAという本に興味を感じて次にBに引きつけられるということが一見いかに不合理で偶然的に見えても、それにはやはりそうなるべきはずの理由が内在しているであろう。ただそれを正当に認識するには、ちょうど精神分析の大家がわれわれの夢の分析判断を試みるよりもいっそう深刻な分析と総合の能力を要求するであろう。
それだから、ある時にちっとも興味のなかった書物をちがった時に読んでみると非常な興味を覚えることも珍しくない。子供の時にきらいであった塩辛《しおから》が年取ってから好きになったといって、別に子供の時代の自分に義理を立てて塩辛を割愛するにも及ばないであろう。
なんべん読んでもおもしろく、読めば読むほどおもしろみの深入りする書物もある。それは作ったもの、こしらえたものにはまれで、生きたドキューメントというような種類のものに多いのはむしろ当然のことであろう。
二、三ページ読んだきりで投げ出したり、またページを繰ってさし絵を見ただけの本でも、ずっと後になって意外に役に立つ場合もある。若い時分には、読みだした本をおしまいまで読まないのが悪事であるような気がしたのであるが、今では読みたくない本を無理に読むことは第一できないしまた読むほうが悪いような気がする。時には小説などを終わりのほうから逆にはじめのほうへ読むのもおもしろい、そうしていけない理由もない。活動のフィルムの逆転をしてはいけない事はないと同じである。
いろいろな書物を遠慮なくかじるほうがいいかもしれない。宅《うち》の花壇へいろいろの草花の種をまいてみるようなものである。そのうちで地味に適応したものが栄えて花実を結ぶであろう。人にすすめられた種だけをまいて、育たないはずのものを育てる努力にひと春を浪費しなくてもよさそうに思
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