しれない。
それはとにかく、この振り出し薬の香をかぐと昔の郷里の家の長火鉢《ながひばち》の引き出しが忽然《こつぜん》として記憶の水準面に出現する。そうして、その引き出しの中には、もぐさや松脂《まつやに》の火打ち石や、それから栓《せん》抜《ぬ》きのねじや何に使ったかわからぬ小さな鈴などがだらしもなく雑居している光景が実にありありと眼前に思い浮かべられる。松脂は痰《たん》の薬だと言って祖母が時々飲んでいたのである。
この煎薬《せんやく》のにおいと自分らが少年時代に受けた孔孟《こうもう》の教えとには切っても切れないつながりがあるような気がする。
時代に適応するつもりで骨を折って新しがってみても、鼻にしみ込んだこの引き出しのにおいが抜けない限り心底から新しくなりようがない。
十二
四五年会わなかった知人に偶然|銀座《ぎんざ》でめぐり会った。それからすぐ帰宅して見るとその同じ人からはがきが来ていた。町名番地が変わったからという活版刷りの通知状であったが、とにかく年賀状以外にこの人の書信に接したことはやはり四五年来一度もなかったはずである。
そのはがきを出したのは銀座で
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