は民衆に対するきき目が薄いということもよく知っていた。それでこういう方便のうそをついたものであろう。
「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率《プロバビリティ》があると言えば、食って平気だったという証人が何人あっても、正確な統計をとらない限り反証はできない。それで兼山のような一国の信望の厚い人がそう言えば、普通のまじめな良民で命の惜しい人はまずまず椋鳥《むくどり》を食うことはなるべく控えるようになる。そこが兼山のねらいどころであったろう。
 これが「百羽に一羽」というのではまずい。もし一プロセントの中毒率があるとすればその実例が一つや二つぐらいそこいらにありそうな気がするであろう。また「万羽に一羽」でもうまくない。万人に一人では恐ろしさがだいぶ希薄になる。万に一つが恐ろしくては東京の町など歩かれない。やはり「千羽に一羽」は動かしにくいのである。
 こういうおどかしはしかし兼山に対する民衆の信用が厚くなければなんの効能もなくなることである。

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