えるための舵《かじ》のようなものらしい。
 座席に腰かけている人はパナマ帽に羽織袴《はおりはかま》の中年紳士で、ペダルを踏んでいるのは十八九歳ぐらいの女中さんである。
 この乗り物が町の四つ角《かど》に来たとき、そのうしろから松葉杖《まつばづえ》を突いた立派な風采《ふうさい》の青年がやって来て追い越そうとした。袴をはいているが見たところ左の足が無いらしい。それを呼び止めて三輪車上の紳士が何か聞いている。隻脚《せききゃく》の青年は何か一言きわめてそっけない返事をしたまま、松葉杖のテンポを急がせて行き過ぎてしまった。思いなしか青年の顔がまっかになっているように思われた。
 呼び止めた歩行不能の中年紳士の気持ちも、急いで別れて行った青年の気持ちもいくらかわかるような気がした。自分があの二人のどちらかだったら、やはり同じことをしたであろうと思われた。

       十一

 風邪《かぜ》をひいて軽い咳《せき》が止まらないようなとき昔流の振り出し薬を飲むと存外よくきく事がある。草根木皮の成分はまだ充分には研究されていないのだから、医者の知らない妙薬が数々はいっているかもしれない、またいないかもしれない。
 それはとにかく、この振り出し薬の香をかぐと昔の郷里の家の長火鉢《ながひばち》の引き出しが忽然《こつぜん》として記憶の水準面に出現する。そうして、その引き出しの中には、もぐさや松脂《まつやに》の火打ち石や、それから栓《せん》抜《ぬ》きのねじや何に使ったかわからぬ小さな鈴などがだらしもなく雑居している光景が実にありありと眼前に思い浮かべられる。松脂は痰《たん》の薬だと言って祖母が時々飲んでいたのである。
 この煎薬《せんやく》のにおいと自分らが少年時代に受けた孔孟《こうもう》の教えとには切っても切れないつながりがあるような気がする。
 時代に適応するつもりで骨を折って新しがってみても、鼻にしみ込んだこの引き出しのにおいが抜けない限り心底から新しくなりようがない。

       十二

 四五年会わなかった知人に偶然|銀座《ぎんざ》でめぐり会った。それからすぐ帰宅して見るとその同じ人からはがきが来ていた。町名番地が変わったからという活版刷りの通知状であったが、とにかく年賀状以外にこの人の書信に接したことはやはり四五年来一度もなかったはずである。
 そのはがきを出したのは銀座で会う以前であったということは到着の時刻からも消印からも確実に証明された。
 この偶然な二つの出来事の合致《コインシデンス》が起こるという確率は正確には計算しにくいが、とにかく千分の一とか二千分の一とかいう小数である。しかしそういうめったに起こりそうもないことが実際に起こることがあるというのが、確率論のまさしく教えるところである。してみるとこれは不思議でもなんでもないとも言われる。しかしまた、それだから不思議だとも言われる。要は不思議という言葉の定義次第である。

       十三

「陸の竜宮《りゅうぐう》」と呼ばれる日本劇場が経営困難で閉鎖されるということが新聞で報ぜられた。翌日この劇場前を通ったら、なるほど、すべての入り口が閉鎖され平生のにぎやかな粧飾が全部取り払われて、そうして中央の入り口の前に「場内改築並びに整理のために臨時休業」という立て札が立っている。
 近傍一帯が急にさびれて見えた。隣の東京朝日新聞社の建物がなんだかさびしそうな顔をして立っているように思われるのであった。
 建物にもやっぱり顔があるのである。

       十四

 マルキシズムの立場から科学を論じ、科学者の任務に対していろいろな注文をつける人がある。その人たちとしては一応もっともな議論ではあろうが、ただの科学者から見るとごくごく狭い自分勝手な視角から見た管見的科学論としか思われない。
 科学者の科学研究欲には理屈を超越した本能的なものがあるように自分には思われる。
 蜜蜂《みつばち》が蜜を集めている。一つ一つの蜜蜂にはそれぞれの哲学があるのかもしれない。しかしそんなことはどうであっても彼らが蜜を集めているという事実には変わりはないのである。そうして彼らにもわれらにも役に立つものは彼らの哲学ではなくて彼らの集めた蜜なのである。
 マルキシズムその他いろいろなイズムの立場から蜜蜂《みつばち》に注文をつけるのは随意であるが、蜜蜂はそんな注文を超越してやっぱり同じように蜜を集めるであろう。そうして忙しい蜜蜂はおそらくそういう注文者を笑ったりそしったりする暇すらないであろうと思われる。

       十五

 中庭の土に埋め込んだ水甕《みずがめ》に金魚を飼っている。Sがたんせいして世話したおかげで無事に三冬を越したのが三尾いた。毎朝廊下を通る人影を見ると三尾|喙《くち》を並べてこっちを向
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