いて餌《えさ》をねだった。時おりのら猫《ねこ》がねらいに来るので金網のふたをかぶせてあったのがいつとなくさび朽ちて穴の明いているのをそのままにしてあった。この夏のある朝見たら三尾の一尾が横になって浮いている。よく見ると鰓《えら》の下に傷あとがあって出血しているのである。金網の破れから猫が手を入れて引っかけそこなったものと思われた。負傷した金魚はまもなく死んでしまった。ちょうどその日金魚屋が来たので死んだのの代わりに同歳のを一尾買って入れた。夜はまた猫が来るといけないからというので網の代わりに古い風呂桶《ふろおけ》のふたをかぶせておいた。翌朝あけて見るときのう買ったのと、前からいた生き残りのうちの一尾とが死んでいた。
死因がわからない。しかしたぶんこうではないかと思われた。夏じゅうは昼間に暖まった甕の水が夜間の放熱で表面から冷え、冷えた水は重くなって沈むのでいわゆる対流が起こる。そのおかげで水が表面から底まで静かにかき回され、冷却されると同時に底のほうで発生した悪いガスなどの蓄積も妨げられる。それを、木のふたで密閉したから夜間の冷却が行なわれず、対流が生ぜず、従って有害なものが底のほうに蓄積して窒息死を起こしたのではないかというのである。これが冬期だといったいの水温がずっと低いために悪いガスなどの発生も微少だから害はないであろう。これは想像である。
それにしても同じ有害な環境におかれた三尾のうちで二つは死んで一つは生き残るから妙である。
水雷艇「友鶴《ともづる》」の覆没《ふくぼつ》の悲惨事を思い出した。
あれにもやはり人間の科学知識の欠乏が原因の一つになっていたという話である。
忘れても二度と夏の夜の金魚鉢《きんぎょばち》に木のふたをしないことである。
十六
野中兼山《のなかけんざん》が「椋鳥《むくどり》には千羽に一羽の毒がある」と教えたことを数年前にかいた随筆中に引用しておいたら、近ごろその出典について日本橋区《にほんばしく》のある女学校の先生から問い合わせの手紙が来た。しかしこの話は子供のころから父にたびたび聞かされただけで典拠については何も知らない。ただこういう話が土佐《とさ》の民間に伝わっていたことだけはたしかである。
野中兼山は椋鳥が害虫駆除に有効な益鳥であることを知っていて、これを保護しようと思ったが、そういう消極的な理由では民衆に対するきき目が薄いということもよく知っていた。それでこういう方便のうそをついたものであろう。
「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率《プロバビリティ》があると言えば、食って平気だったという証人が何人あっても、正確な統計をとらない限り反証はできない。それで兼山のような一国の信望の厚い人がそう言えば、普通のまじめな良民で命の惜しい人はまずまず椋鳥《むくどり》を食うことはなるべく控えるようになる。そこが兼山のねらいどころであったろう。
これが「百羽に一羽」というのではまずい。もし一プロセントの中毒率があるとすればその実例が一つや二つぐらいそこいらにありそうな気がするであろう。また「万羽に一羽」でもうまくない。万人に一人では恐ろしさがだいぶ希薄になる。万に一つが恐ろしくては東京の町など歩かれない。やはり「千羽に一羽」は動かしにくいのである。
こういうおどかしはしかし兼山に対する民衆の信用が厚くなければなんの効能もなくなることである。
兼山の信用があまりに厚かったためにいろいろの類似の言い伝えが、なんでもかでも兼山と結びつけられているのではないかという疑いもある。実際|土佐《とさ》では弘法大師《こうぼうだいし》と兼山との二人がそれぞれあらゆる奇蹟《きせき》と機知との専売人になっているのである。
十七
野中兼山《のなかけんざん》の土木工学者としての逸話を二つだけ記憶している。その一つは、わずかな高低|凹凸《おうとつ》の複雑に分布した地面の水準測量をするのに、わざと夜間を選び、助手に点火した線香を持って所定の方向に歩かせ、その火光をねらって高低を定めたと言い伝えられていることである。しかしねらうのには水準器のついた望遠鏡か、これに相当する器械が必要であろうがそれについては聞いたことがない。
もう一つは浦戸港《うらどこう》の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没すると教えたことである。しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁《かくれいわ》が汽船の出入りの邪魔になると言ってダイナマイトで破砕されてしまった
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