東上記
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欄干に倚《よ》る
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)柿の実|撒砂《まきすな》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゆら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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八月二十六日床を出でて先ず欄干に倚《よ》る。空よく晴れて朝風やゝ肌寒く露の小萩のみだれを吹いて葉鶏頭《はげいとう》の色鮮やかに穂先おおかた黄ばみたる田面《たのも》を見渡す。薄霧《うすぎり》北の山の根に消えやらず、柿の実|撒砂《まきすな》にかちりと音して宿夢《しゅくむ》拭うがごとくにさめたり。しばらくの別れを握手に告ぐる妻が鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》に風ゆらぎて蚊帳《かや》の裾ゆら/\と秋も早や立つめり。台所に杯盤《はいばん》の音、戸口に見送りの人声、はや出立《いでた》たんと吸物の前にすわれば床の間の三宝《さんぽう》に枳殼《からたち》飾りし親の情先ず有難《ありがた》く、この枳殼誤って足にかけたれば取りかえてよと云う人の情もうれし。盃一順。早く行て船室へ場を取りませねばと立上がれば婢僕《ひぼく》親戚|上《あが》り框《かまち》に集《つど》いて荷物を車夫に渡す。忘れ物はないか。御座りませぬ。そんなら皆さん御機嫌よくも云った積《つも》りなれどやゝ夢心地なればたしかならず。玄関を出れば人々も砂利《じゃり》を鳴らしてついて来る。用意の車五輌口々に何やら云えどよくは耳に入らず。から/\と引き出せば後にまた御機嫌ようの声々あまり悪からぬものなり。見返る門柳監獄の壁にかくれて流れる水に漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》動く。韋駄天《いだてん》を叱する勢いよく松《まつ》が端《はな》に馳《か》け付くれば旅立つ人見送る人|人足《にんそく》船頭ののゝしる声々。車の音。端艇|涯《きし》をはなるれば水棹《みさお》のしずく屋根板にはら/\と音する。舷《ふなべり》のすれあう音ようやく止んで船は中流に出でたり。水害の名残《なごり》棒堤《ぼうづつみ》にしるく砂利に埋るゝ蘆《あし》もあわれなり。左側の水楼に坐して此方《こっち》を見る老人のあればきっと中風《ちゅうぶう》よとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。新地《しんち》の絃歌《げんか》聞えぬが嬉《うれ》しくて丸山台まで行けば小蒸汽《こじょうき》一|艘《そう》後より追越して行きぬ。
昔の大名それの君、すれちがいし船の早さに驚いてあれは何船と問い給えば御附きの人々かしこまりて、あれはちがい船なればかく早くこそと御答え申せば、さらばそのちがい船を造れと仰せられし勿体《もったい》なさと父上の話に皆々またどっと笑う間に船は新田堤にかかる。並んで行く船に苅谷氏も乗り居てこれも今日の船にて熊本へ行くなりとかにてその母堂も船窓より首さしのべて挨拶する様ちと可笑《おか》しくなりたれど、じっとこらゆるうちさし込む朝日暑ければにや障子ぴたりとしめたり。程なく新高知丸の舷側《げんそく》につけば梯子《はしご》の混雑例のごとし。荷物を上げ座もかまえ、まだ出帆には間もあればと岩亀亭《がんきてい》へつけさせ昼飯したゝむ。江上油のごとく白鳥飛んでいよいよ青し。欄下の溜池に海蟹《うみがに》の鋏《はさみ》動かす様がおかしくて見ておれば人を呼ぶ汽笛の声に何となく心|急《せ》き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上れば艫《とも》に水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる/\と廻ってハンケチ帽子をふる見送りの人々。これに応ずる乗客の数々。いつの間にか船首をめぐらせる端艇小さくなりて人の顔も分き難くなれば甲板《かんぱん》に長居は船暈《ふなよい》の元と窮屈なる船室に這《は》い込み用意の葡萄酒一杯に喉を沾《うるお》して革鞄《かばん》枕に横になれば甲板にまたもや汽笛の音。船は早や港を出るよと思えど窓外を覗《のぞ》く元気もなし。『新小説』取り出でて読む。宙外《ちゅうがい》の「血桜」二、三頁読みかくれば船底にすさまじき物音して船体にわかに傾けり。皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて最早《もはや》気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きをじっと腹をしめて専《もっぱ》ら小説に気を取られるように勉《つと》むればよう/\に胸静まり、さきの葡萄酒の酔心。ほっとしていつしか書中の人となりける。ボーイの昼食をすゝむる声耳に入りたれどもとより起き上がる事さえ出来ざる吾《われ》の渋茶一杯すゝる気もなく黙って読み続くるも実はこのようなる静穏の海上に一杯の食さえ叶《かな》わぬと思われん事の口惜《くちお》しければなり。
一篇広告の隅々まで読み終りし頃は身体ようやく動揺になれて心地やゝすが/\しくなり、半《なか》ば身を起して窓外を見れば船は今|室戸岬《むろとざき》を廻るなり。百尺岩頭燈台の白堊《はくあ》日にかがやいて漁舟の波のうちに隠見するもの三、四。これに鴎《かもめ》が飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚《とびうお》一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。甲《かん》の浦《うら》沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃《めしびつ》膳具《ぜんぐ》を取り下ろすボーイの声|八《や》ヶましきは早や夕飯なるべし。少し大胆になりて起き上がり箸を取るに頭思いの外《ほか》に軽くて胸も苦しからず。隣りに坐りし三十くらいの叔母様の御給仕|忝《かたじけな》しと一碗を傾くればはや厭《いや》になりぬ。寺田寅彦さんと云う方は御座らぬかとわめくボーイの濁声《だみごえ》うるさければ黙って居けるがあまりに呼び立つる故オイ何んだと起き上がれば貴方《あなた》ですかと怪訝顔《けげんがお》なるも気の毒なり。何ぞと言葉を和《やわ》らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子《なし》二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速《さっそく》頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦にせし夕日も消えて甲板を下り来る人多くなり、窮屈さはいっそう甚だしけれど吾一人にもあらねば致し方もなし。隣りに言葉|訛《なま》り奇妙なる二人連れの饒舌《じょうぜつ》もいびきの音に変って、向うのせなあが追分《おいわけ》を歌い始むれば甲板に誰れの持て来たものか轡虫《くつわむし》の鳴き出したるなど面白し。甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は鷹城《たかじょう》のほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ/\と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿《あさま》しき事なり。残夢再びさむれば、もう神戸《こうべ》が見えますると隣りの女に告ぐるボーイの声。さてこそとにわかに元気つきて窓を覗《のぞ》きたれど月なき空に淡路島《あわじしま》も見え分かず。再びとろ/\として覚むれば船は既に港内に入って窓外にきらめく舷燈の赤き青き。汽笛の吼《ほ》ゆるごとき叫ぶがごとき深夜の寂寞《せきばく》と云う事知らぬ港ながら帆柱にゆらぐ星の光はさすがに静かなり。革鞄と毛布と蝙蝠傘《こうもりがさ》とを両手一ぱいにかかえて狭き梯子を上って甲板に上がれば既に船は桟橋《さんばし》へ着きていたり。苅谷氏に昨夕の礼をのべて船を下り安松へ上がる。岡崎賢七とか云う人と同室へ入れられ、宅《うち》へ端書《はがき》したゝむ。時計を見ればまだ三時なり。しかし六時の急行に乗る積りなれば落付いて眠る間もなかるべしと漱石師などへ用もなき端書したゝむ。ラムネを取りにやりたれど夜中にて無し、氷も梨も同様なりとの事なり。退屈さの茶を啜《すす》れば胸ふくれて心地よからず。とかくするうち東の空白み渡りて茜《あかね》の一抹《いちまつ》と共に星の光まばらになり、軒下に車の音しげくなり、時計を見れば既に五時半なり。急いで朝飯かき込み岡崎氏と停車場に馳《か》けつくれば用捨気《ようしゃげ》もなき汽車進行を始めて吐き出す煙の音乗り遅れし吾等を嘲るがごとし。珍しき事にもあらねど忌々《いまいま》しきものなり。先ず荷物を預けんとて二人のを一緒に衡《はか》らす。運賃弐円とは馬鹿々々しけれど致し方もなし。楠公《なんこう》へでも行くべしとて出立《いでた》たんとせしがまてしばし余は名古屋にて一泊すれども岡崎氏は直行なれば手荷物はやはり別にすべしとて再び切符の切り換えを求む。駅員の不機嫌顔甚だしきも官線はやはり官線だけの権力とか云うものあるべしと、かしこみて願い奉りようよう切符を頂戴して立ちいずれば吹き上ぐる朝嵐に藁帽《わらぼう》飛んでぬかるみを走る事|数間《すうけん》、ようやく追い付きて取止《とりとど》めたれど泥にまみれてあまり立派ならぬ帽の更に見ばえを落したる重ね/\の失敗なり。旅なればこれも腹は立たず。元町《もとまち》を線路に沿うて行く。道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠《なんこうし》まで行きたり。亀の遊ぶのを見たりとて面白くもなし湊川《みなとがわ》へ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の魎魅《りょうみ》も影をかくして軒を並ぶる小亭|閑《かん》として人の気あるは稀なり。並木の影涼しきところ木の根に腰かけて憩《いこ》えば晴嵐《せいらん》梢を鳴らして衣に入る。枯枝を拾いて砂に嗚呼《ああ》忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船の大き小さきも見ゆ。多門通りより元の道に出てまた前の氷屋に一杯の玉壺を呼んで荷物を受取り停車場に行く。今ようやく八時なればまだ四時間はこゝに待つべしと思えば堪えられぬ欠伸《あくび》に向うに坐れる姉様けゞん顔して吾を見る。時これ金と云えばこの四時間何金に当るや知らねどあくびと煙草《たばこ》の煙に消すも残念なり、いざや人物の観察にても始めんと目を見開けば隣りに腰かけし印半天《しるしばんてん》の煙草の火を借らんとて誤りて我が手に火を落しあわてて引きのけたる我がさまの吾ながら可笑しければ思わず噴き出す。この男バナナと隠元豆《いんげんまめ》を入れたる提籠《さげかご》を携えたるが領《えり》しるしの水雷亭[#「水雷亭」に傍点]とは珍しきと見ておればやがてベンチの隅に倒れてねてしまいける。富米野と云う男熊本にて見知りたるも来れり。同席なりし東も来り野並も来る。
こゝへ新《あらた》に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立《おんいでたち》。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇《ひさし》よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬《そうきょう》に薄紅さして面《おも》はゆげなり。人々の視線一度に此方《こなた》へ向かえば新郎のパナマ帽もうつむきける。この二人|間《ま》もなく大阪行のにて去る。引きちがえて入り来る西洋人のたけ低く顔のたけも著しく短きが赤き顔にこればかり立派なる鬚《ひげ》ひねりながら煙草を人力《じんりき》に買わせて向側のプラットフォームに腰をかけ煙草取り出して鬚をかい上ぐるなどあまり上等社会にもあらざるべし。これと同じ白衣着けたる連れの男は顔長く頬髯《ほおひげ》見事なれど歩み方の変なるは義足なるべし。この間改札口幾度か開かれまた閉じられて汽
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