な》にて横須賀行の軍人下りたるが乗客はやはり増すばかりなり。隣りに坐りし静岡の商人二人しきりに関西の暴風を語り米相場を説けば向うに腰かけし文身《いれずみ》の老人御殿場の料理屋の亭主と云えるが富士登山の景況を語る。近頃は西洋人も婦人まで草鞋《わらじ》にて登る由なりなどしきりに得意の様なりしが果ては問わず語りに人の難儀をよそに見られぬ私の性分までかつぎ出して少時《しばし》も饒舌《しゃべ》り止めず、面白き爺さんなり。程《ほど》が谷《や》近くなれば近き頃の横浜の大火乗客の話柄《わへい》を賑わす。これより急行となりたれば神奈川鶴見などは止らず。夕陽海に沈んで煙波|杳《よう》たる品川の湾に七砲台|朧《おぼろ》なり。何の祝宴か磯辺の水楼に紅燈山形につるして絃歌湧き、沖に上ぐる花火夕闇の空に声なし。洲崎の灯影長うして江水|漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《れんい》清く、電燈|煌《こう》として列車長きプラットフォームに入れば吐き出す人波。下駄の音靴のひゞき。[#地から1字上げ](明治三十二年九月)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2004年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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