あし》もあわれなり。左側の水楼に坐して此方《こっち》を見る老人のあればきっと中風《ちゅうぶう》よとはよき見立てと竹村はやせば皆々笑う。新地《しんち》の絃歌《げんか》聞えぬが嬉《うれ》しくて丸山台まで行けば小蒸汽《こじょうき》一|艘《そう》後より追越して行きぬ。
 昔の大名それの君、すれちがいし船の早さに驚いてあれは何船と問い給えば御附きの人々かしこまりて、あれはちがい船なればかく早くこそと御答え申せば、さらばそのちがい船を造れと仰せられし勿体《もったい》なさと父上の話に皆々またどっと笑う間に船は新田堤にかかる。並んで行く船に苅谷氏も乗り居てこれも今日の船にて熊本へ行くなりとかにてその母堂も船窓より首さしのべて挨拶する様ちと可笑《おか》しくなりたれど、じっとこらゆるうちさし込む朝日暑ければにや障子ぴたりとしめたり。程なく新高知丸の舷側《げんそく》につけば梯子《はしご》の混雑例のごとし。荷物を上げ座もかまえ、まだ出帆には間もあればと岩亀亭《がんきてい》へつけさせ昼飯したゝむ。江上油のごとく白鳥飛んでいよいよ青し。欄下の溜池に海蟹《うみがに》の鋏《はさみ》動かす様がおかしくて見ておれば人を呼ぶ汽笛の声に何となく心|急《せ》き立ちて端艇出させ、道中はことさら気を付けてと父上一句、さらば御無事でと子供等の声々、後に聞いて梯子駆け上れば艫《とも》に水白く泡立ってあたりの景色廻り舞台のようにくる/\と廻ってハンケチ帽子をふる見送りの人々。これに応ずる乗客の数々。いつの間にか船首をめぐらせる端艇小さくなりて人の顔も分き難くなれば甲板《かんぱん》に長居は船暈《ふなよい》の元と窮屈なる船室に這《は》い込み用意の葡萄酒一杯に喉を沾《うるお》して革鞄《かばん》枕に横になれば甲板にまたもや汽笛の音。船は早や港を出るよと思えど窓外を覗《のぞ》く元気もなし。『新小説』取り出でて読む。宙外《ちゅうがい》の「血桜」二、三頁読みかくれば船底にすさまじき物音して船体にわかに傾けり。皆々思わず起き上がる。港口浅せたるためキールの砂利に触るゝなるべし。あまり気味よからねば半頁程の所読んではいたれど何がかいてあったかわからざりしも後にて可笑しかりける。船の進むにつれて最早《もはや》気味悪き音はやんで動揺はようやく始まりて早や胸悪きをじっと腹をしめて専《もっぱ》ら小説に気を取られるように勉《つと》むればよう/\
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