音がかなり混じていて耳ざわりであった。それにもかかわらず私の心はその時不思議にこのおとぎ歌劇の音楽に引き込まれて行った。充分には聞きとり兼ねる歌詞はどうであっても、歌う人の巧拙はどうであってもそんな事にかまわず私の胸の中には美しい「子供の世界」の幻像が描かれた。聞いているうちになんという事なしに、ひとりで涙が出て来た。長い間自分の目の奥に固く凍りついていたものが初めて解けて流れ出るような気がした。
聞きながら私は、うちでも一つ蓄音機を買ってやろうと思いついた。そして寒い雨の日に銀座へ出かけて器械と「ドンブラコ」のレコードを求めて来た。子供らの喜びは一通りでなかった。品物の届く時刻を待ちかねて門の外へ幾度か見に出たりした。
その夜のわが家はいつになくにぎわった。なんとなしに子供の心を押しつけていた暗い影が少なくともこの夜はどこかへ行ってしまったような気がした。疲れて快く眠る子供の顔を見比べながら雨戸にしぶく雨の音を聞いているうちにいつのまにか説明のできない涙が流れた。
当分の間は毎日子供から蓄音機を蓄音機をと迫られた。子供らはもうすっかり歌詞や旋律を覚えてしまって、朝起きると床の中
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