もできるので、実際そういう目的で保存されている記録がウィンナにあると聞いている。
平円盤によって行なわれた声音学上の実験的研究もたくさんにあって、今でも続いて熱心な学者がこれを追究している。カルソーの母音の中の微妙な変化やテトラッチニの極度の高音やが分析の俎板《まないた》に載せられている。それにもかかわらず母音の組成に関する秘密はまだ完全に明らかにはならない。ヘルムホルツ、ヘルマン以来の論争はまだ解決したとは言われないようである。このような方面にはまだたくさんの探究すべき問題が残っている。ことに日本人にとっては日本語の母音や子音の組成、また特有な音色をもった三味線や尺八の音の特異な因子を研究するのはずいぶん興味のある事に相違ない。私はこの種の研究が早晩日本の学者の手で遂行される事を望んでいる。
私が初めて平円盤蓄音機に出会ったのは、瀬戸内海《せとないかい》通いの汽船の客室であったように記憶する。その後大学生時代に神戸《こうべ》と郷里との間を往復する汽船の中でいつも粗悪な平円盤レコードの音に悩まされた印象がかなり強く残っている。船にいくじがなくて、胸に込み上げる不快の感覚をわずかにおさえつけて少時の眠りを求めようとしている耳元に、かの劣悪なレコードの発する奇怪な音響と騒がしい旋律とはかなりに迷惑なものの一つである。それが食堂で夜ふけまで長時間続いていた傍若無人の高話がようやく少し静まりかけるころに始まるのが通例であった。波が荒れて動揺のすさまじい時だけはさすがにこの音も聞こえなかったが、そういう時にはまた船よいの苦悩がさらにはなはだしかった。
汽船会社は無論乗客の無聊《ぶりょう》を慰めるために蓄音機を備えてあるので、また事実上多数の乗客は会社の親切を充分に享楽しているでもあろうが、これがために少数の「除外例」が受ける迷惑も少しは考慮の中に加えてもらいたいと思った事も幾度あったかわからない。
このような不平を起こすのが間違っているという事は、その後だんだんに少しずつわかって来た。汽船の夜の蓄音機はこのごろどうなったか知らないが、これに代わるべきさらに強烈なものは今の世上にあまりに多い。いつまでもこのような不平を超越しないでいては自分のような弱い神経をもったものは生存そのものが危うくなるであろう。
汽船の外でも西洋小間物屋の店先や、居酒屋の繩《なわ》のれんの奥から聞こえて来るのが通りすがりに聞かない事はなかった。そういうのは大概「金の逃げ出す音」の種類に属するものであった。しかしそれはこっちで逃げさえすれば追っかけて来ないから始末がよかった。
蓄音機のラッパというものも私にはあまり気持ちのいいものではなかった。器械全体の大きさに対してなんとなく均衡を失して醜い不安な外観を呈するものである。一寸法師が尨大《ぼうだい》なメガフォーンをさしあげてどなっているような感じがある。これが菊咲き朝顔のように彩色されたのなどになるといっそう恐ろしい物に見えるのである。
グラモフォーンに対する私の妙な反感がいくらか柔らげられるような機会が来たのは私が三十二の年にドイツへ行っていた時の事である。かの地の大使館員でMという人と知り合いになったがその人がラッパのない、小さな戸棚《とだな》のような形をした上等の蓄音機をもっていた。そしてかの地で聞く機会の多いオペラのアリアや各種器楽のレコードを集めて、それを研究し修練してわびしいひとり居の下宿生活を慰めていた。その人の所で私はいい蓄音機のいいレコードがそれほど恐ろしいものではないという事を初めて知った。しかしそれにしても当時耳にする機会の多かった本物の音楽に比べては到底比較にならない物足りないものだという気がした。曲の構想や旋律を研究し記憶して、次に本物を聞くための準備をするには非常に重宝なものであるとは気がついたが、これを純粋な芸術的享楽の目的物とする気にはどうもなれなかった。
それで蓄音機と私との交渉はそれきりになってさらに十年の歳月が流れた。
ある年の十月に私は妻を失った。やがて襲って来た冬はわびしいわが家をさらにわびしいものにした。おおぜいの子供をかかえて家内じゅうの世話をやく心せわしいさびしさのうちに年が暮れて正月になった。年頭の儀式は廃しても春はどこやら春らしくて、突きつまったような心にもいくらかのゆとりができた。三が日過ぎたある日親類へ行ったら座敷に蓄音機が出ていた。正月の客あしらいかたがたどこからか借りて来たので、私が来たら聞かせようと言って待っていたとの事であった。そこでおとぎ歌劇「ドンブラコ」というのを聞かされた。
この器械はいわゆる無ラッパの小形のもので、音が弱くて騒がしい事はなかったが、音色の再現という点からはあまり完全とは思われず、それに何かものを摩擦するような雑
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