来た。それは妙に押しつぶされたような鼻声ではあったが、ともかくも文学士の特徴ある「ラアヽ」などの抑揚をかなり忠実に再現したので、講堂の中からは自然な感嘆の声とおさえつけた笑声とが一時に沸きあがった。
 この一日の出来事はどういうものか私の中学時代の思い出の中に目立って抜き出た目標の一つになっている。一つにはこの泰西科学の進歩がもたらした驚異の実験が、私の子供の時から芽を出しかけていた科学一般に対する愛着の心に強い衝動を与えたためであろうが、そのほかにまだ何かしらある啓示を与えたものがあるためではないかと思っている。私は今でも事にふれてこの文学士の「高い山から」を思い出す。あの時にあの罪のない俚謡《りよう》から流れ出た自由な明るい心持ちは三十年後の今日まで消えずに残っていて、行きづまりがちな私の心に有益な転機を与え、しゃちこ張りたがる気分にゆとりを与える。これはおそらく私の長い学校生活の間に受けた最もありがたい教えの中の一つではなかったかと思う。業に疲れ生に倦《う》んだ時に私はいろいろの形式でいろいろの「高い山」を歌う。そうして新しい勇気と希望を呼び返すのである。
 私にはかなり重大な、しかし他人にはおそらくくだらなく些細《ささい》なこの経験を世の教育家たちにささげて何かの参考にしてもらいたいと思っている。
 エジソンの発明から十数年の後に、初めて東洋の田舎《いなか》の小都会に最新の驚異として迎えられた蓄音機も、いつとはなしに田舎でもあまり珍しいものではなくなってしまった。日曜ごとにK市の本町通りで開かれる市にいつもきまって出現した、おもちゃや駄菓子《だがし》を並べた露店、むしろの上に鶏卵や牡丹餅《ぼたもち》や虎杖《いたどり》やさとうきび等を並べた農婦の売店などの中に交じって蓄音機屋の店がおのずからな異彩を放っていた。
 器械から出る音のエネルギーがいたずらに空中に飛散して銭を払わない往来の人に聞こえる事のないように、銭を払った花客だけによく聞こえるために幾対かのゴム管で分配されるようになっていた。耳にさした管を両手でおさえて首をたれて熱心に聞いている花客を見おろすようにして、口の内で器械の音曲をささやいている主人は狐《きつね》の毛皮の帽子をかぶったりしていた。彼はともかくも周囲のあらゆる露店の主人に比べては一頭地を抜いた文明の宣伝者ででもあるように思われた。
 私は大道の蓄音機を聞いてみたいという希望をかなり強くもっていたにかかわらず、とうとう一度も聞く事ができなかった。私の知っている範囲の友だちや市民でこの蓄音機の管を耳にはさんでいるのを見かけた事もなかった。聞いているのはほとんど皆|田舎《いなか》の田舎から出て来たらしい最も文明と縁の遠い人たちであった。
 大道で蓄音機を聞くという事がたいして悪い事とは思われない。りんごをかじりながら街頭をあるくよりも、環視の中でメリーゴーラウンドに乗るよりもむしろいい事かもしれないのに、何かしらそれを引き止める心理作用があって私の勇気を沮喪《そそう》させるのであった。そのためにこの文明の利器に親炙《しんしゃ》する好機会をみすみす取り逃がしつつ、そんなこだわりなしにおもしろそうに聞いている田舎《いなか》の人たちをうらやまなければならなかった。このような「薄志弱行」はいつまでも私の生涯《しょうがい》に付きまとって絶えず私に「損」をさせている。
 大道蓄音機が文化の福音を片田舎に広めた事は疑いもないが、同時にあの耳にはさむ管の端が耳の病気を伝播《でんぱ》させはしなかったかと心配する。今ならばフォルマリンか何かで消毒するだろうが、あのころそういう衛生上の注意が行き届いていたかどうか疑わしい。しかし今日でも文化の輸入|伝播《でんぱ》に付いて来る種々な害毒がかなり激烈で、しかもそれを防ぐ事ができないのであるから、耳の病気ぐらいはやむを得ない事であったかもしれない。
 改良を加えた蝋管蓄音機《ろうかんちくおんき》を聞きそこなった私は、音色の再現がどのくらいまで完全に行ったかを経験する事ができなかった。しかしかなりまで完成に近づいていたには相違ない。種々な楽器の音や特に昔から問題となっている人声母音の組成要素を分析し研究するに適当な材料としてこの蝋管記録が種々に利用された。蝋管に刻まれた微細な凹凸《おうとつ》を巧妙な仕掛けで郭大した曲線を調和分析にかけて組成因子の間の関係を調べたりして声音学上の知識に貢献した事も少なくない。この種の研究は平円盤の発明によって非常な進捗《しんちょく》を遂げた事はいうまでもない。蝋管記録の寿命はせいぜい千回ぐらいであるのに平円盤の原型の寿命はほとんど永久であると言ってもよい。それでたとえば現在のある国語の発音を記録しておいて百年千年万年の後のものと比較してその変遷を調べる事
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