音がかなり混じていて耳ざわりであった。それにもかかわらず私の心はその時不思議にこのおとぎ歌劇の音楽に引き込まれて行った。充分には聞きとり兼ねる歌詞はどうであっても、歌う人の巧拙はどうであってもそんな事にかまわず私の胸の中には美しい「子供の世界」の幻像が描かれた。聞いているうちになんという事なしに、ひとりで涙が出て来た。長い間自分の目の奥に固く凍りついていたものが初めて解けて流れ出るような気がした。
 聞きながら私は、うちでも一つ蓄音機を買ってやろうと思いついた。そして寒い雨の日に銀座へ出かけて器械と「ドンブラコ」のレコードを求めて来た。子供らの喜びは一通りでなかった。品物の届く時刻を待ちかねて門の外へ幾度か見に出たりした。
 その夜のわが家はいつになくにぎわった。なんとなしに子供の心を押しつけていた暗い影が少なくともこの夜はどこかへ行ってしまったような気がした。疲れて快く眠る子供の顔を見比べながら雨戸にしぶく雨の音を聞いているうちにいつのまにか説明のできない涙が流れた。
 当分の間は毎日子供から蓄音機を蓄音機をと迫られた。子供らはもうすっかり歌詞や旋律を覚えてしまって、朝起きると床の中からあちらでもこちらでもそれを歌っているのであった。
 小学生のよく歌うような唱歌のレコードも買って来たが、それらはとても聞かれない妙な不愉快なものであった。ああいう歌でもちゃんとした声楽家の歌ったのならきっとおもしろいだろうと思われるが、普通のレコードのように妙な癖のあるませた子供の唱歌は私にはどうも聞き苦しい。そうかと言って邦楽の大部分や俗曲の類は子供らにあまり親しませたくなし、落語などというのは隣でやっているのを聞くだけでも私は頭が痛くなるようであった。それで結局私のレコード箱にはヴィクターの譜が大部分を占めるようになった。
 妙なもので、初めのうちは「牛若丸《うしわかまる》」や「うさぎとかめ」などを喜んだ子供らも、じきに、そういうものよりは、やはりあちらの名高い曲のいいレコードを喜ぶようになった。きょうは「アンヴィルコーラス」をやれとか、カルソーの「アヴェマリア」をやれとかいろいろの注文を持ち出すようになった。
 普通の和製のレコードとヴィクターのと見比べて著しく目につく事は盤の表面のきめ[#「きめ」に傍点]の粗密である。その差はことに音波の刻まれた部分に著しい。適当な傾きに光を反射させて見た時に一方のはなんとなくがさがさした感じを与えるが、一方は油でも含んだような柔かい光沢を帯びている。これは刻まれた線の深さにもよる事ではあろうが、ともかくもレコードの発する雑音の多少がこの光沢の相違と密接な関係のある事は疑いもない事である。これは材料その物の性質にもよりまた表面の仕上げの方法にもよるだろうが、少しの研究と苦心によって少なくも外国製に劣らぬくらいにはできそうなものであるのに、それができていないのはどういう理由によるものか、門外漢にはわかりかねる。しかし私の知れる範囲内では、蓄音機レコードの製造工場へ聘《へい》せられて専心その改良に没頭している理学士は一人もないようである。もっともこれは別に蓄音機のみに関した事ではない。当然専門の理学士によってのみ初めてできうべき器械類が、そういう人の手によらずしてともかくも造られているという奇蹟的《きせきてき》事実は至るところに見受けられる事であるから。
 いずれにしても今の蓄音機はまだ完全なものとは思われない。だれにでもいちばんに邪魔になるのはあのささら[#「ささら」に傍点]でこするような、またフライパンのたぎるような雑音である。あれを防ぐ目的で振動膜から発する音を長さ二十余尺あるいは四十余尺の幾度も折れ曲がった管の中を通過させて試験した人もある。そうすれば雑音の短い音波はかなり消却されるがそのかわり音が弱くなるのは免れ難いし、また同時に肝心の楽音の音色にもいくぶんかの変化を起こすのはやむを得ないようである。そのほかに驢馬《ろば》の耳の形をしたラッパを使った人もあるが、どれだけ有効であるかよくわからない。しかしこの雑音は送音管部のみならず盤や針や振動膜やすべての部分の研究改良によって除去し得ないほどの困難とは思われない。早晩そういう改良が外国のどこかで行なわれるだろうと予期される。
 もう一つの蓄音機の欠点は、レコードの長さに制限があって長い曲が途中で中断せられる事である。この中絶をなくするために二台の器械を連結してレコードの切れ目で一方から他方へ切りかえる仕掛けがわが国の学者によって発明されたそうであるが、一般の人にはこの中断がそれほど苦にならないと見えて、まだ市場にそういう器械が現われた事を聞かない。
 音波によって起こされた電流の変化を、電磁石によって鋼鉄の針金の付磁の変化に翻訳して記録し、随時に
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