地図をながめて
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撒布《さんぷ》された
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この夏|信州《しんしゅう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和九年十月、東京朝日新聞)
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「当世物は尽くし」で「安いもの」を列挙するとしたら、その筆頭にあげられるべきものの一つは陸地測量部の地図、中でも五万分一地形図などであろう。一枚の代価十三銭であるが、その一枚からわれわれが学べば学び得らるる有用な知識は到底金銭に換算することのできないほど貴重なものである。今かりにどれかの一枚を絶版にして、天下に撒布《さんぷ》されたあらゆる標本を回収しそのただ一枚だけを残して他はことごとく焼いてしまったとしたら、その残った一枚は少なくも数百円、相手により場合によっては一万円でも買い手があるであろう。
一枚の五万分一図葉は、緯度で十分、経度で十五分の地域に相当するので、その面積は、もちろん緯度によってちがうが、たとえば東京付近でざっと二十七方里、台湾《たいわん》では約三十一方里、カラフトでは約二十一方里ぐらいに当たる。
この一枚の地形図を作るための実地作業におよそどれだけの手数がかかるかと聞いてみると、地形の種類によりまた作業者の能力によりいろいろではあるがざっと三百日から四百日はかかる。それに要する作業費が二三千円であるが、地形図の基礎になる三角測量の経費をも入れて勘定すると、一枚分約一万円ぐらいを使わなければならない、そのほかにまだ計算、整理、製図、製版等の作業費を費やすことはもちろんである。
それだけの手数のかかったものがわずかにコーヒー一杯の代価で買えるのである。
もっとも物の価値は使う人次第でどうにもなる。地図を読む事を知らない人にはせっかくのこの地形図も反古《ほご》同様でなければ何かの包み紙になるくらいである。読めぬ人にはアッシリア文は飛白《かすり》の模様と同じであり、サンスクリット文は牧場の垣根《かきね》と別に変わったことはないのと一般である。しかし「地図の言葉」に習熟した人にとっては、一枚の図葉は実にありとあらゆる有用な知識の宝庫であり、もっとも忠実な助言者であり相談相手である。
今、かりに地形図の中の任意の一寸角をとって、その中に盛り込まれただけのあらゆる知識をわれらの「日本語」に翻訳しなければならないとなったらそれはたいへんである。等高線ただ一本の曲折だけでもそれを筆に尽くすことはほとんど不可能であろう。それが「地図の言葉」で読めばただ一目で土地の高低起伏、斜面の緩急等が明白な心像となって出現するのみならず、大小道路の連絡、山の木立ちの模様、耕地の分布や種類の概念までも得られる。
自分は汽車旅行をするときはいつでも二十万分一と五万分一との沿線地図を用意して行く。遠方の山などは二十万分一でことごとく名前がわかり、付近の地形は五万分一と車窓を流れる透視図と見比べてかなりに正確で詳細な心像が得られる。しかしもし地形図なしで、これだけの概念を得ようとしたら、おそらく一生を放浪の旅に消耗《しょうもう》しなければなるまい。
この夏|信州《しんしゅう》星野温泉《ほしのおんせん》から小瀬温泉《こせおんせん》まで散歩したとき途中で道の別れるところに一人若い男が休んでいたので、小瀬へはこちらでいいかと聞くと、それでは反対で白糸《しらいと》の滝へ行ってしまうという。どうも変だと思って五万分一に相談してみるとやっぱり自分の思ったほうが正しい。それでかまわず地図の教えるとおりに歩いて行くと、あとから先ほどの若い男が駆けて来て、「ちょっと勘違いしました、どうもすみません」といって駆け抜けて行った。小瀬へ行ってみるとその男はもうちゃんと宿屋に納まって子供とピンポンをやっていた。人間は勘違いしたり、故意にだましたりしても、五万分一地形図はいつも正直である。たまに、万に一の地図の誤りを指摘して小言をいう好事家《こうずか》があるにしても陸地測量部地形図の信用は小ゆるぎもしないであろう。ただいちばん面食らわされるのは、東京付近などで年々新しく開設される電鉄軌道や自動車道路がその都度記入されていないことだけである。
東京付近へドライヴに出るとき気のついたことは、たいていの運転手が陸地測量部地形図を利用しないでかえって坊間で売っている不正確な鳥瞰的《ちょうかんてき》地図を使っていることである。どうも地形図の読み方をよく知らない運転手が多いらしい。しかしまた前記のように地形図がアップ・ツ・デートでないためもあるかもしれない。
地形図の価値はその正確さによる。昔ベルリン留学中かの地の地埋学教室に出入していたころ、一日P教授が「おも
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