から行って見るまでわからなかったし、死因も全然不明であったのである。
最も大規模な測量の例としてはこんな場合もある。台湾《たいわん》の中央山脈を測量した時などは、蛮人百二十名巡査十五名を従え軍隊組織で行列二里にわたり、四日間の露営をしたそうであるが、これらは民間登山家などには味わうことのできない一種の天国行軍であろうと思われる。
とにかく、これだけの艱難辛苦《かんなんしんく》によって一等三角網が完成される。これを基礎としてそれから二等三等三角網が張り渡され、それを目標として局部局部の地形測量を仕上げられるまでのいきさつは、およそ素人《しろうと》の想像に余るものであろう。
地形測量をする測量班員が深山幽谷をさまようて幾日も人間のにおいをかがずにいて、やっとどこかの三角点の櫓《やぐら》にたどりつくと、なんとなくうれしさとなつかしさに胸をおどらすという話である。この一事だけでも、この仕事の生やさしいものでない事がわかるであろう。
自分はずっと前からこの世に知られていない文化の貢献者を何かの機会に世間に紹介したいという希望をもっていた。そうして当局者の好意で主要な高山における三角点の観測者の名前とその測量年度を表記したものを手にすることができた。しかし今ここでその表の一小部分でも載せることは紙面の制限上到底許されない。それでここではただ現在陸地測量部地形図の恩恵をこうむりながらそれを意識していない一般の読者に、そうした隠れた貢献者が一枚一枚の図葉の背後に存在することを指摘し注意を促すよりほかに道はない。
近年になってまた日本の陸地測量部は一つの新しい方面で世界の学界に偉大な貢献をするようになった。それは同一地域の三角測量や精密水準測量を数年を隔てて繰り返し、その前後の結果を比較することによってわれらの生命を託する地殻《ちかく》の変動を詳しく探究することである。近着のアメリカ地理学会の雑誌の評論欄にわが国の地球物理学者の仕事を紹介してあるその冒頭に「地殻《ちかく》変動の測定に関してはいかなる国民も日本人に匹敵するものはない」と書いてある。
この重要な研究の基礎となる実測資料は実にことごとくわが陸地測量部員の汗血の結晶でできたものである。もっともこの測量には多大の費用がかかるのであるが、それは幸いに帝国学士院や、原田積善会《はらだせきぜんかい》、服部報公会《はっとりほうこうかい》等の財団または若干篤志家の有力な援助によって支弁され、そのおかげで次第に観測資料が蓄積され、その結果はわが国の有為な少壮学者らの手によって逐次に分析的に研究されつつあり、その研究の結果は現在世界の地球物理学者の注意を集めているようである。私は読者の中で国家百年の将来を思う人々があらば、どうかこういう国家的にも世界的にも意義の深い仕事に有形無形の援助を惜しまれないようにこの機会をかりて切望する次第である。
人間が地上ばかりを歩いている間は普通の地図で足りるが、空を飛び歩くようになった今日では航空用の地図が必要になった。しかし、現在の航空地図はまだほんの芽ばえのようなもので普通の地形図に少しばかり毛のはえたものである。しかし今に航空がもっともっと発達して、空中の各層に縦横の航空路が交錯するようになればもはや平面的な図では間に合わなくなって立体的なあるいは少なくも立体的に代用される特殊な地図が必要になるかもしれない。
空中ばかりでなく人間の交通範囲は地下にも拡張される傾向がある。
関東大震後に私は首都の枢要部をことごとく地下に埋めてしまうという方法を考えたことがある。重要な官衙《かんが》や公共設備のビルディングを地上百尺の代わりに地下百尺あるいは二百尺に築造し、地上は全部公園と安息所にしてしまう。これならば大地震があっても大丈夫であり、敵軍の空襲を受けても平気でいられるようにすることができるからである。この私の夢のような案は当時だれもまじめには聞いてくれなかった。
しかし現に丸《まる》の内《うち》の元警視庁跡に建築されることになっている第一相互の新館は地下六十尺に基礎をすえ、地下室が四階になるはずだそうで、いわば私の夢の一端がすでに実現されかけたように見える。もしも丸の内の他の建物もだんだんに地底の第三紀層の堅固な基礎の上に樹立される日が来れば、自然に建物と建物の各層相互の交通のために地下道路が縦横に貫通するようになるかもしれない。そうなれば丸の内の地図はもはや一枚では足りなくなって地下各層の交通を示す立体図が必要になる勘定である。
九月一日は帝都の防空演習で丸の内などは仮想敵軍の空襲の焦点となったことと思われる。演習だからよいようなものの、これがほんとうであったらなかなかの難儀である。しかし、もしも丸の内全部が地下百尺の七層街になっていたとしたら
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