断片(1[#「1」はローマ数字、1−13−21])
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)神保町《じんぼうちょう》から

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十一年八月『明星』)
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         一

 神保町《じんぼうちょう》から小川町《おがわまち》の方へ行く途中で荷馬車のまわりに人だかりがしていた。馬が倒れたのを今引起こしたところであるらしい。馬の横腹から頬の辺まで、雨上がりの泥濘がべっとりついて塗り立ての泥壁を見るようである。あらわな肋骨《ろっこつ》の辺には皮が擦り剥けて赤い血が泥ににじんでいるところがある。馬の腹は波を打つように大きくせわしなく動いている。堪え難い苦痛があの大きな肉体の中一体に脈動しているように思われるが、物を云う事の出来ない馬は黙ってただ口を動かし唇をふるわしていた。唇からはいたましく血泡がはみ出していた。
 小川町で用を足して帰りにまたそこを通った。木材を満載したその荷馬車の車輪が道路の窪みの深い泥に喰い込んで動かなくなったのを、通行人が二人手を貸して動かそうとしていた。やっと動き出したので手をはなすと、馬士《まご》一人の力ではやはり一寸《ちょっと》も動かない。「どうかもう少し願います。後生だから……」そう云って歎願しているが、さっきの人達はもう行ってしまって、それに代る助力者も急には出て来なかった。
 馬はと見ると電柱につながれてじっとして立っていた。すぐその前に水を入れた飼葉槽《かいばおけ》が置いてあるが、中の水は真黄色な泥水である。こんなきたない水を飲んだのだろうかと思うと厭な心持がした。馬の唇にはやはり血泡がたまっていた。
 私は平生アンチヴィヴィセクショニストなどという者に対して苦々しい感じを抱いている。また動物虐待防止という言葉からもあるあまり香ばしくない匂を感ずる。しかしこういう場合に出逢ってみるとやっぱり馬が可哀相になる。馬士も気の毒になってよさそうな訳だが、どうもこの場合馬の方に余計に心をひかれる。
 つまり馬の方は物を云わないからじゃないかと思う。

         二

 頭が悪くて仕事が出来なくなったから、絵具箱をさげて中野まで行った。
 鉄道線路脇のちょっとした雑木林の陰に草を折り敷いて、向うの丘陵に二軒つづいた赤瓦
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