断水の日
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)頻繁《ひんぱん》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)多少|亀裂《きれつ》でもはいって

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)適当になます[#「なます」に傍点]とか
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 十二月八日の晩にかなり強い地震があった。それは私が東京に住まうようになって以来覚えないくらい強いものであった。振動週期の短い主要動の始めの部分に次いでやって来る緩慢な波動が明らかにからだに感ぜられるのでも、この地震があまり小さなものではないと思われた。このくらいのならあとから来る余震が相当に頻繁《ひんぱん》に感じられるだろうと思っていると、はたしてかなり鮮明なのが相次いでやって来た。
 山の手の、地盤の固いこのへんの平家でこれくらいだから、神田《かんだ》へんの地盤の弱い所では壁がこぼれるくらいの所はあったかもしれないというような事を話しながら寝てしまった。
 翌朝の新聞で見ると実際下町ではひさしの瓦《かわら》が落ちた家もあったくらいでまず明治二十八年来の地震だという事であった。そしてその日の夕刊に淀橋《よどばし》近くの水道の溝渠《こうきょ》がくずれて付近が洪水《こうずい》のようになり、そのために東京全市が断水に会う恐れがあるので、今大急ぎで応急工事をやっているという記事が出た。
 偶然その日の夕飯の膳《ぜん》で私たちはエレベーターの話をしていた。あれをつるしてある鋼条が切れる心配はないかというような質問が子供のうちから出たので、私はそのような事のあった実例を話し、それからそういう危険を防止するために鋼条の弱点の有無を電磁作用で不断に検査する器械の発明されている事も話しなどした。それを話しながらも、また話したあとでも、私の頭の奥のほうで、現代文明の生んだあらゆる施設の保存期限が経過した後に起こるべき種々な困難がぼんやり意識されていた。これは昔天が落ちて来はしないかと心配した杞《き》の国の人の取り越し苦労とはちがって、あまりに明白すぎるほど明白な、有限な未来にきたるべき当然の事実である。たとえばやや大きな地震があった場合に都市の水道やガスがだめになるというような事は、初めから明らかにわかっているが、また不思議に皆がいつでも忘れている事実である。
 それで食後にこの夕刊の記事を読んだ時に、なんとなしに変な気持ちがした。今のついさきに思った事とあまりによく適応したからである。
 それにしても、その程度の地震で、そればかりで、あの種類の構造物が崩壊するのは少しおかしいと思ったが、新聞の記事をよく読んでみると、かなり以前から多少|亀裂《きれつ》でもはいって弱点のあったのが地震のために一度に片付いてしまったのであるらしい。そのような亀裂の入ったのはどういうわけだか、たとえば地盤の狂いといったような不可抗の理由によるのか、それとも工事が元来あまり完全ではなかったためだか、そんな事は今のところだれにもわからない問題であるらしい。
 それはいずれにしても、こういう困難はいつかは起こるべきはずのもので、これに対する応急の処置や設備はあらかじめ充分に研究されてあり、またそのような応急工事の材料や手順はちゃんと定められていた事であろうと思って安心していた。
 十日は終日雨が降った、そのために工事が妨げられもしたそうで、とうとう十一日は全市断水という事になった。ずいぶん困った人が多かったには相違ないが、それでも私のうちでは幸いに隣の井戸が借りられるのでたいした不便はなかった。昼ごろ用があって花屋へ行って見たらすべての花は水々していた。昼過ぎに、遠くない近所に火事があったがそれもまもなく消えた。夕刊を見ながら私は断水の不平よりはむしろ修繕工事を不眠不休で監督しているいわゆる責任のある当局の人たちの心持ちを想像して、これも気の毒でたまらないような気もした。
 このような事のある一方で、私の宅《うち》の客間の電燈をつけたり消したりするために壁に取りつけてあるスイッチが破損して、明かりがつかなくなってしまった。電燈会社の出張所へ掛け合ってみたが、会社専用のスイッチでなくて、式のちがったのだから、こちらで買ってからでないと付け換えてくれない。それでやむを得ず私は道具箱の中から銅線の切れはしを捜し出して、ともかくも応急の修理を自分でやって、その夜はどうにか間に合わせた。その時に調べてみるとボタンを押した時に電路を閉じるべき銅板のばねの片方の翼が根元から折れてしまっていたのである。
 実はよほど前に、便所に取り付けてある同じ型のスイッチが、やはり同じ局部の破損のために役に立たなくなって、これもその当座自分で間に合わせの修理をしたままで、ついそれなりにしておいたのである。取
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