何時の世のどの展覧会にでも通用する批評である。先ず普通は眼前の作品を与えられた具体的の被与件《データ》として肯定してから相対的の批評で市が栄えるとしたものであろう。
 芸術の技巧に関する伝統が尊重された時代には、芸術の批評権といったようなものは主に芸術家自身か、さもなくば博学な美術考証家の手に保存されて、吾々素人は何か云いたくなる腹の虫を叱り付けていなければならなかった。ところが何時の間にか伝統の縄張りが朽ちて跡方もなくなって、普通選挙の広い野原が解放されてしまった。これはいい事だか悪い事だか見当が付かないが、ともかくもどうする事も出来ない事実である。
 そうなると、批評というものの意味はもう昔とは大分違ったものになってしまう。民衆批評家は作品の客観的価値よりはむしろ自分の眼の批評をするのであり自分の要求を自白する、だから、自分さえ構わなければ何を云っても構わないと同時に、被批評者は何を云われても別に自分の信条に衝動を感じる必要はないかもしれない。
 そういう民衆批評家の一人として何か云う前に自分の芸術観を内省してみた。
 その内省の結果をここに告白しようとは思わないが、ただこれだけ云
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