っておきたいと思う事がある。
絵画が或《あ》る有限の距離に有限な「完成」の目標を認めて進んでいた時代はもう過ぎ去ったと私は思う。今の絵画の標的は無限の距離に退いてしまった。無限に対しては一里も千里も価値は大して変らない。このような時代に当って「完成の度」に代って作品の価値を定めるものは何であろう。それは譬《たと》えて云わば、無限に向かって進んで行く光の「強度《インテンシチー》」のようなものではあるまいか。無限の空間に運動している物の「運動量《モーメンタム》」のようなものではあるまいか。
こういう立場から見た時にセザンヌやゴーホの価値が私には始めて明らかになると同時に、支那や日本の古来の名画までも今までとちがった光の下に新しく生きて来るような気がする。
こういう眼で見た帝展の日本画はどうであろう。美術院の絵画はどうであろう。完成を標準として見た時にあら[#「あら」に傍点]の少ない絵はやはり大家の作に多いが、「強度」の大きい絵が却って割合に無名の若い作者のに多いという事はおそらく大多数の人の認めるところであろう。前者の例は差控える事にして、後者の例を試みに昨年の帝展から取ってみると、
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