例えば「雪」という題で、二曲屏風一双に、枯枝に積った雪とその陰から覗く血のような椿とを描いたのがあった。描き方としては随分重苦しく厚ぼったいものである。軽妙な仕上げを生命とする一派の人の眼で見ればあるいは頭痛を催す種類のものかもしれない。それだけに作家の当該の自然に対する感じあるいはその自然の中に認めた生命が強い強度で表わされていると思った。それからまた「清水《きよみず》」と「高瀬川《たかせがわ》」という題で、絵馬か覗きからくりの絵からでも進化したような絵があったが、あれにもやはり無限に近づこうとする努力の第一歩がないとは云われなかった。それからゴーホを煮しめたとでも云ったしょうな「深草《ふかくさ》」や、田舎芝居の書割《かきわり》を思い出させる「一力《いちりき》」や、これらの絵からあらを捜せばいくらもあるだろうし、徒《いたず》らに皮相の奇を求めるとけなす人はあるだろうが、しかし何と云ってもどこか吾人の胸の奥に隠れたある物、ある根強い要求に共鳴をさせるところがありはしまいか。感覚的な外観の底にかくれた不可達の生命をつかもうとする熱望|衝動《インパルス》が同じ方向に動こうとする吾々の心にもいくぶんかの運動量を附与しないだろうか。無論私は作家自身の心のアスピレーションと作品の上に現れたそれとを混同していない積りである。努力だけを買うという意味ではないのである。
「樹を描くにしても、画家自身がある度までその樹にならなくてはいけない。」こんな事をエマーソンに云った画家があった。この条件に及第する樹の画があるかと思ってみても「雪」の枯枝などがやはり先ず心に浮かぶ。
見ている自分が「その絵の中に這入《はい》って行ける」ような絵はあるまいか。こう思った時に私は「上井草《かみいぐさ》附近」という絵を想い出した。これに反して大変評判のよかったある二、三の風景画などには、あまりにあらわな眩目的《げんもくてき》な見せつけ場所や、眼を突くような技巧の鉄条網が邪魔になって私にはどうしても絵の中へ踏み込めなかった。これから思うと例えば大雅堂《たいがどう》や高陽《こうよう》などの粗雑なような画が見る人を包み込む魔力を今更のように驚かないではいられない。
それにしても私にはどうして世間から承認された大家の作品の多くのものに共鳴が出来ないだろう。そういう絵の多くは実によく「完成」されている。そして
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