来する人力車の音が気になる。凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍《い》てた夜の土と砂利を噛む音は昭和の今日ではもうめったに聞くことの出来ないものになってしまった。
 だんだん近付いて来る車の音が宿の前で止まるかと思っているとただそのまま行過ぎて消えてしまう。今度こそと思ったのもまた行過ぎる。そんなことを繰返し繰返し十二時過ぎても眠られないで待っている。やっと車の音が玄関へ飛び込んで来ると思うと番頭や女中の出迎える物音がしてそうして急に世の中が賑やかに明るくなった。「ほう、まだ起きていたのか」と云ってびっくりしたような顔をして見せるのであったが、その顔に何となしに寄る年の疲れが見えて鬚《ひげ》の毛の白くなったのが眼につくのであった。
 凍てた霜夜の土で想い出すことがもう一つある。子供の頃、寒月の冴えた夜などに友達の家から帰って来る途中で川沿いの道の真中をすかして見ると土の表面にちょうど飛石《とびいし》を並べたようにかすかに白っぽい色をした斑点が規則正しく一列に並んでいる。それは昔この道路の水準がずっと低かった頃に砂利をつめた土俵を並べて飛石代りにしてあった、それをそのまま後に土で埋めて道路面を上げたのであるが、砂利が周囲の湿気を吸収するために、その上に当るところだけ余計に乾燥して白く見えるとの事であった。しかし、どうしてそれが月夜の晩によく見えるかは誰も説明する人はなかった。それはとにかく、寒月に照らし出されたこの「飛石の幽霊」には何となく神秘的な凄味が感ぜられた。埋められた過去が月の光に浮かされて浮び上がっているのだというような気がしたのかもしれない。
 そういう晩には綿入羽織《わたいればおり》をすっぽり頭からかぶって、その下から口笛と共に白い蒸気を吹出しながら、なるべく脇目をしないようにして家路を急いだものである。そういう時にまたよく程近い刑務所の構内でどことなく夜警の拍子木を打つ音が響いていた。そうして河向いの高い塀の曲り角のところの内側に塔のような絞首台の建物の屋根が少し見えて、その上には巨杉に蔽われた城山の真暗なシルエットが銀砂を散らした星空に高く聳えていたのである。
[#地から1字上げ](昭和九年十二月『短歌研究』)



底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店
   1996(平成8)年12月5日発行
※底
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