われている。時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。
このような色彩に対する敏感が津田君の日本画に影響を持たないはずはない。尤もある画を見ると色彩については線法や構図に対するほどの苦心はしていないかと思われるのもないではないが、しかし簡単な花鳥の小品などを見ても一見何らの奇もないような配色の中に到底在来の南画家の考え及ばないと思われる創見的な点を発見する事が出来る。例えば一見甚だ陰鬱な緑色のセピアとの配合、強烈に過ぎはしないかと疑われる群青《ぐんじょう》と黄との対照、あるいは牡丹《ぼたん》の花などにおける有りとあらゆる複雑な紫色の舞踏、こういうようなものが君の絵に飽かざる新鮮味を与え生気を添えている。こういう点だけでも自分の見るところでは津田君と同じような人が他に幾人求め得られるか疑わしい。自分が他の種々の点で優れたと思う画家の中でも色彩の独創的な事において同君と比肩すべき人を物色するのは甚だ困難である。
津田君の絵についてもう一つの特徴と思われる事がある。君の絵はある点で甚だ無頓着に自由に且つ呑気そうに見えると同時に、また非常に神経過敏にあるいは少しく病的と思われるほど気むずかしいところがある。これも同君の絵について感ずる矛盾の調和の一つであって絵の深みを増す所以であある。このような点はある支那人や現代二、三の日本画家の作品にも認められるのみならず、また西洋でも後期印象派の作などにおいて瞥見するところである。あるいは却って古代の宗教画などに見られて近代のアカデミー風の画には薬にしたくもないところである。ルーベンスやゲーンスボローやないしはアルマタデマに無くしてセザンヌ、ゴーホあるいはセガンチニなどに存するところのものである。
津田君の日本画とセザンヌやゴーホの作品との間の交渉は種々の点で認められる。単にその技巧の上から見ても津田君の例えばある樹幹の描き方や水流の写法にはどことなくゴーホを想起させるような狂熱的な点がある。あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎《りんご》や壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想《れんそう》せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の※[#「火+餡のつくり」、第3水準1−87−49]《ほのお》が、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更《なおさら》の事であろう。
ある批評家はセザンヌの作品とドストエフスキーの文学との肖似《しょうじ》を論じている。自分も偶然に津田君の画とこの露文豪のある作品との間に共軛点《きょうやくてん》を認めさせられている。殊に彼の『イディオット』の主人公の無技巧な人格の美に対して感じるような快感を津田君の画から味わい得られる。そして真率|朴訥《ぼくとつ》という事から出て来る無限の大勢力の前に虚飾や権謀が意気地なく敗亡する事を痛快に感じないではいられない。
以上の比較は無論ただ津田君の画のある小さい部分について当《あ》て嵌《はま》るものであって、全体について云えば津田君の画は固《もと》より津田君の画である事は申すまでもない。同君のような出発点を有する人の画を論ずるに他人のしかも外国人の画などを引合いに出したくはない。しかし外国人の事と云えば、これを紹介し祖述する事に敏捷《びんしょう》な人々の多い世の中に、津田君の画を紹介しようとする人の少ないのは不思議である。遂に自分のようなものでも差し出口をきかなければならないような事になるのはどういう訳であろう。
ここまで書いて来て振り返ってみると自分ながら随分臆面もなくよくこれだけ書いたものだと思う。しかし自分として云いたいと思う事はまだなかなか十分の一も尽されていない。一番云いたいと思うような主要な第一義の事柄はこれを云い表わすだけの言葉がなかなか見付からない。それでやっと述べ得た事すらも多くは平凡でなければ不得要領であったり独り合点に終っているかもしれない。
青楓《せいふう》論と題しながら遂に一種の頌辞《しょうじ》のようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
津田君の画はまだ要するにXである。何時《いつ》如何《いか》なる辺に赴くかは津田君自身にもおそらく分らないだろう。しかしその出発原点と大体の加速度の方向とが同君として最も適切なところに嵌っている事は疑いもない事である。そして既に現在の作品が群を抜いた立派なものである事も確かである。それで自分は特別な興味と期待と同情とをもって同君の将来に嘱目している。そして何時までも安心したりおさまったりする事なしに、何時までも迷って煩悶して進んで行く事を祈るものである。芸術の世界に限らず科学の世界でも何か新しい事を始めようとする人に対する世間の軽侮、冷笑ないし迫害は、往々にして勇気を沮喪《そそう》させたがるものである。しかし自分の知っている津田君にはそんな事はあるまいと思う。かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。
[#地から1字上げ](大正七年八月『中央公論』)
底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
1997(平成9)年7月7日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「中央公論」
1918(大正7)年8月1日
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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