実験を行ってそこに一つの新しい芸術的の世界を構成し現出せしめるのである。画としての生命はむしろここにあるのであるまいか。科学者の仕事の生命は人の実験を繰り返す事でないと同様に画家の価値も不断に自分の「実験」を考えながら進んで行くところにあるのではあるまいか。
 もし世の中に全然新しいものが得られぬとすれば、在来の画の種類の中でこのような「思考の実験」を行うに最も適したものは南画だという事はあえて多言を要しない事と思う。そういう事はもう自分のここに云うとはちがった言葉で云い古された事かもしれない。しかもこういう意味から見て絵画と称すべき絵画の我邦《わがくに》に存する事があまりに少ないのに驚くのである。
 津田君の絵は今非常な速度で変化し発育しつつあるのだから概括的に論ずるが困難であるのみならず、また具体的に一つ一つの作品に対して批評するのも容易な仕事ではない。しかしともかくも出発点における覚悟と努力の向け方においては自分が本当の南画の精神要旨と考えるものに正《まさ》しく適合している。狭く南画などとは云わず、一般に芸術というものが科学などの圧迫に無関係に永存し得べき肝心の要素に触接しているように思われるのである。
 津田君といえども伝習の羈絆《きはん》を脱却するのは困難である。あるいは支那人や大雅堂蕪村《たいがどうぶそん》やあるいは竹田《ちくでん》のような幻像が絶えず眼前を横行してそれらから強い誘惑を受けているように見える。そしてそれらに対抗して自分の赤裸々の本性を出そうとする際に、従来同君の多く手にかけて来た図案の筆法がややもすれば首を出したくなる。それをも強《し》いて振り落して全く新しい天地を見出そうと勉《つと》めているのである。その努力の効果は決して仇《あだ》でない事は最近の作品が証明している。
 津田君が南画に精力を集注し始めた初期の作品を見ると一つの面白い現象を発見する。例えば樹の枝に鳥が止まっている。よく見ると樹の枝は鳥の胴体を貫通していて鳥はあたかも透明な物体であるように出来上がっている。津田君は別にこれに対して何とも不都合を感じていないようである。樹枝を画く時にここへ後から鳥を止まらせる用意としてあらかじめ書き残しをしておくような細工はしないのである。これは一見没常識のように見えるかもしれぬが、そこに津田君の出発点の特徴が最も明白に現われているのである。そういう遣り方が写真として不都合であっても絵画としてはそれほど不都合な事ではないという事が初めから明らかに理解されている証拠である。また下書きなどをしてその上を綺麗《きれい》に塗りつぶす月並なやり方の通弊を脱し得る所以《ゆえん》であるまいか。本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め一を左から右へ引き通す際に後から来る※[#「十−一」、第3水準1−14−4]の事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示《レヴェレーション》ではあるまいか。自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしまって何らの不都合をも感じなくなった。おそらく誰でも同様であろう。ただ在来の月並の不合理や出来合の矛盾にのみ馴れてそれを忘れている眼にほんの一時的の反感を起させるに過ぎないであろう。
 津田君の絵についてこういう新しい見馴れぬ矛盾や不合理を探せばいくらでもある。こういう点の多いという事がまさに君が新しい眼で自然を見つつある事実を証明するのである。在来のいわゆる穏健な異端でない画に対して吾人が不合理を感じないのは、そこに不合理がないという証拠では毛頭ない。ただそこには何らの新しい不合理を示していないというだけである。そしてこれは間接には畢竟《ひっきょう》新しい何物をも包んでいない事を暗示するのである。そうかと思うと一方で立体派や未来派のような舶来の不合理をそのままに鵜呑《うの》みにして有難がって模倣しているような不見識な人の多い中に、このような自分の腹から自然に出た些細《ささい》な不合理はむしろ一服の清涼剤として珍重すべきもののような感がある。
 鳥の脚が変な処にくっついている、樹の上で鳥が力学的平衡を保ち得るかは疑問である。樹の幹や枝の弾性は果してその重量に堪え得るや否や覚束ない。あるいは藁苞《わらづと》のような恰好をした白鳥が湿り気のない水に浮んでいたり、睡蓮《すいれん》の茎ともあろうものが蓮《はす》のように無遠慮に長く水上に聳《そび》えている事もある。時には庇《ひさし》ばかりで屋根のない家に唐人のような漱石先生が居る事もある。このような不思議な現象は津田君のある時期の画中には到る処に見出される。在来の型以外のものに対して盲目な公衆の眼にはどうしても軽視され時には滑稽視されるのは誠に止むを得ぬ次第であるが、そういう人でも先ず試みに津田君のこの種の絵と技巧の一点張の普通の絵と並べて壁間に掲げ、ゆっくり且《か》つ虚心に眺めて見るだけの手数をしたならば、多分今までとちがった心持で津田君の絵を見直すだけの余裕が出来ようかと思う。技巧を主とした絵は一見その妙に酔わされ感服させられる。しかし先ず大抵《たいてい》の絵は少し永く見ていると直にそれほどの魅力はなくなる、そして往々一種の堪え難い浮薄な厭味が鼻につく場合も少なくない。技巧というものが畢竟それ限りのものであって、それ以上の何物をも有せぬものとすれば、これは当然な事ではあるまいか。津田君の絵は正《まさ》しくそれに反する。ちょっと見た時にはかつて夏目先生が云われたじじむさいような点や、一見甚だしく不器用なようみ見える描き方や、科学的幾何学的の不合理というようなものが目に付きやすい、それにかかわらず何とも名状の出来ぬ一種の清新な空気が画面に泛《ただよ》うている事は極端な頑固な人でない限りおそらく誰でも容易に観取する事が出来るだろう。そしてもしその際自分の本当の感じを押し隠したり偽ったりする事さえしなければ、だんだん眺めていればいるほど前にじじむさいと思ったところや不合理と感じた事は何でもなくなって、従来のいわゆる穏健な絵からは受ける事の出来ない新しい活気のある面白味や美しさが際限もなく出て来るだろう。技巧派の絵からは吾人が自然そのものについて教えられ、また啓示される事は甚だ稀であるが、津田君の絵からは自分は常に様々な暗示を受け、新しい事を教えられるのである。本当の芸術上の創作というものはこういうものであるべきではあるまいか。
 仕上げの足りないという事やじじむさいという事は自分の要求するような意味の創作というものにはあるいはむしろ避くべからざる附き物ではないかと思う。一度草稿を作ってその通りのものを丹念に二度書き上げたものは、もはや半分以上魂の抜けたものになるのは実際止み難い事である。津田君はそういう魂のないものを我慢して画く事の出来ぬ性の人であるから、たとえ幾枚画き改めたところで遂に「仕上げ」の出来る気遣いはないのであろう。二枚目は草稿よりもとにかく一歩でも進まないではいられないのである。一体職工的の「仕上げ」という事が芸術品の価値にどれだけ必要なものであるか疑わしい。悪くおさまった仕上げはその作品を何らの暗示も刺戟もないものにしてしまう。完全和絃ばかりから構成されたものは音楽とはなり得ないように絵画でも幾多の不協和音や雑音に相当する要素がなければ深い面白味は生じ得ないではあるまいか。特に南画においてそういう必要があるのではあるまいか。然るに近代の多数の南画家の展覧会などに出した作品例えば御定まりの青緑山水のごときものを見ると、山の形、水の流れ、一草一木の細に至るまで実に一点の誤りもない規則ずくめに出来ている。そして全体の感じはどうであるかというと自分はちょうど主和絃ばかりから出来た音楽でも聞くか、あるいは甘いものずくめの料理を食うような心持がするのである。あるいは平凡な織物の帯地を見ているようなもので、綺麗は綺麗だがそこに何らの感興も起らなければ何らの刺戟も受けない。これに反して古来の大家と云われるほどの人の南画は決してそんなものではない。自分の知っている狭い範囲だけでも蕪村、高陽《こうよう》のごとき人の傑作に対する時は、そこに幾多の不細工あるいは不恰好が優れた器用と手際との中に巧みに入り乱れ織り込まれて、ちょうど力強い名匠の音楽の演奏を聞くような感じがするのである。殊に例えば金冬心《きんとうしん》や石濤《せきとう》のごとき支那人の画を見るがよいと思う。突飛な題材を無造作な不細工な描き方で画いているようではあるが、第一構図や意匠の独創的な事は別問題としても今ここに論じているような「不協和の融和」という事が非常にうまく行われているので、そこに名状の出来ぬ深みが生じ「内容」が出来ているのである。津田君の絵がまさにそうである。非常に不器用な子供の描いたようなところがあると思うとまた非常に巧妙な鋭利なところがある。不細工な粗放な線が出ているかと思うとまた驚くべく繊巧な神経的な線が現われている。云わば一つの線の交響楽《シンフォニー》のようなものではあるまいか。快活、憂鬱、謹厳、戯謔《ぎぎゃく》さまざまの心持が簡単な線の配合によって一幅の絵の中に自由に現われていると思うのである。
 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見《べっけん》するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌《じょうぜつ》な空談者と訥弁《とつべん》な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁|固《もと》より悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。
 このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。近頃某氏のために揮毫《きごう》した野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法《もっこつびょうほう》の豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽《シンフォニー》が出来ている。この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来る事を望みたいと思うものである。
 津田君の絵についてもう一つ云い落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現
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