ってそこには蚊帳《かや》が吊るして寝床が敷いたままになっていた。裏窓からその蚊帳を通して来る萌黄色《もえぎいろ》の光に包まれたこの小さな部屋の光景が、何故か今でも目について忘れられない。
 どんな用向きでどんな話をしたか、それがどういう風に運んだのであったか、その方の記憶は完全に消えてしまっている。とにかく簡単な用事が即座に片附いたのであったろうと思われる。これに反して用事に関係のない事で当時の印象になって残っている事を少しばかり思い出して書いてみる。
 部屋の一体の感じが極めて荒涼《ドレアリー》であったように記憶する。どうせこういう種類の下宿屋住居で、そうそう愉快な室もないはずであるが、しかし随分思い切って侘《わび》しげな住まいであった。具体的な事は覚えていないが、そんな気持のした事は確かである。
 机と本箱はあった。その外には幾枚かのカンヴァスの枠に張ったのが壁にたてかけてあったのと、それから、何かしら食器類の、それも汚れたのが、そこらにころがっていたかと思うが、それもたしかではない。
 一つ確かに覚えているのは、レンブラント画集の立派なのが他の二、三の画集と並んで本箱に立ててあっ
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