新春偶語
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)新玉《あらたま》の春
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(例)[#地から1字上げ](昭和十年一月『都新聞』)
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新玉《あらたま》の春は来ても忘れられないのは去年の東北地方凶作の悲惨事である。これに対しては出来るだけの応急救済法を講じなければならないことは勿論であるが、同時にまた将来いつかは必ず何度となく再起するにきまっているこの凶変に備えるような根本的研究とそれに対する施設を、この機会に着手することが更に一層必要であろうと思われる。可憐《かれん》な都会の小学児童まで動員してこの木枯しの街頭にボール箱を頸《くび》にかけての義捐金《ぎえんきん》募集も悪くはないであろうが、文化的国民の同胞愛の表現はもう少し質実にもう少しこくのあるものであってもよいと思われる。肺炎になってしまってからの愛児の看護に骨を折るよりも、風邪を引かせぬ予防法、引いたときに昂じさせぬ工夫に一倍の頭を使う方が合理的である。
凶作の原因は大体においては明白である。稲の正当な発育には一定量の日照並びに気温の積分的作用が必要であって、これが不足すれば必ず凶作が来る。それで年の豊凶を予察するには結局その年の七、八月における気温や日照の積分額を年の初めに予知することが出来れば少なくも大体の見当はつくということになる。
気温や日照を人為的に支配することは現在の科学の力では望むことが出来ない。しかし年の初め、例えば四、五月頃に七、八月の気候を予察して年の豊凶を卜《ぼく》し、そうしてあらかじめこれに備えることには十分な可能性がある。それについては既に従来にも我国の気象学者の間に色々の詳しい研究があり、次第にその問題の解決に向かって着実な考察の歩を進めているのであるが、しかし、それはなかなか素人《しろうと》の考えるような容易な仕事でないのであって、先ず何よりも出来るだけ多くの精密な系統的な観測材料を蒐集し整理するのが基礎的の仕事で、これなしには如何なる優れた学者でもどうすることも出来ない。
そうした材料を得るための観測施設は個人や小団体の力で出来ることではなくて、結局国家政府の相当熱心な努力によって始めて完備し得ることである。しかもこの種の観測事業は一年や二年で完了するものでなく、永年にわたって極めて持久的に系統的に行ってはじめて効果をあげることが出来るものであろう。それだのに、日本の政府が従来こうした大事な科学的な政道に如何に冷淡であったかは周知の事実である。また、国民の選良であるところの代議士達でこういう問題にいくらかでも理解をもっている人の如何に少数であったかということも知る人は知っている通りである。
凶作の原因となる気温異常には他にも色々な原因はあるとしても一つの因子としてこれと東北沿海の海水の温度異常との間に若干の相関があるらしいということは、我邦《わがくに》の学者の間ではもう少なくも二十年も前から問題となっていたことである。ただこの問題の決定に必要な十分な海洋観測の材料がないために問題はそのままに問題として残され、やがていつとなく忘れられていた。それが今年の凶作で急に焼木杭《やけぼっくい》に火がついた形である。もしも二十年前に時の政府が奮発して若干の設備を施しそうして今日まで根気よく観測を続けて来ていたのであったら、今頃までにはもうどうにか曲りなりにでも解決がついていたのではないかと想像される。
敢《あ》えて農作関係ばかりとは限らず、系統的な海洋観測が我邦のような海国にとっては軍事上からも水産事業のためにも非常に必要であるということは、実に分りきったことであるが、この分り切ったことがどういう訳か昔の日本の政府の大官には永い間どうしても分らなかったのである。故人北原多作氏のごとき少数な篤学の官吏の終生の努力と熱心によってようやく水産に聯関した海洋調査がやや系統的に行われるようになりはしたが、自分の知る限りでは時々の政府の科学的理解のない官僚の気まぐれなその日その日の御都合による朝令暮改《ちょうれいぼかい》の嵐にこの調査の系統が吹き乱される憂いが多分にあった。せっかく続けている観測も上長官が交迭《こうてつ》して運悪く沿革も何も考えぬような後任者が来ると、こんな事やっても何にもならんじゃないかの一言で中止になるという恐れがあった。おまけに万一にも眼界の狭い偏執的《へんしゅうてき》な学者でも出て来て、自分に興味のないような事項の観測の無用論を唱えたりするような場合には事柄はますます心細くなる。幸いに近年は農林省方面でも海洋観測の必要を痛切に認識して系統的な調査もようやくその緒に就いたようで、誠に喜ばしい次第である。
ともかくも、こういう大切な観測事業を
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