ランプの外観だけを備えた玩具か標本に過ぎない。
 ランプの心《しん》は一|把《わ》でなくては売らないというので、一把百何十本買って来た。おそらく生涯使っても使いきれまい。自分の宅《うち》でこれだけ充実した未来への準備は外にはないだろうと思っている。しかしランプの方の保存期限が心の一本の寿命よりも短いのだとすると心細い。
 このランプに比べてみると、実際アメリカ出来の台所用ランプはよく出来ている。粗末なようでも、急所がしっかりしている。すべてが使用の目的を明確に眼前に置いて設計され製造されている。これに反して日本出来のは見掛けのニッケル鍍金《めっき》などに無用な骨を折って、使用の方からは根本的な、油の漏れないという事の注意さえ忘れている。
 ただアメリカ製のこの文化的ランプには、少なくも自分にとっては、一つ欠けたものがある。それを何と名づけていいか、今ちょっと適当な言葉が見付からない。しかしそれはただこのランプに限らず、近頃の多くの文化的何々と称するものにも共通して欠けているある物である。
 それはいわゆる装飾でもない。
 何と云ったらいいか。例えば書物の頁の余白のようなものか。それとも
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