は必ずしも空頼めでないはずであるが、ただそういう型の学者は時にアカデミーの咎《とが》めを受けて成敗される危険がないとも限らない。これも、いつの世にも変らない浮世の事実であろう。
余談ではあるが、西鶴の文章には、例えば馬琴などと比べて、簡単な言葉で実に生ま生ましい実感を盛ったものが多い。例えば、瑣末な例であるが『武道伝来記』一の四に、女に変装させて送り出す際に「風俗を使《つかい》やくの女に作り、真紅《しんく》の網袋に葉付の蜜柑を入」れて持たせる記事がある。この網袋入りの蜜柑の印象が強烈である。また例えば『桜陰比事』二の三にある埋仏詐偽の項中に、床下の土を掘っても仏らしいものは見えず「口欠《くちかけ》の茶壷又は消炭螺《けしずみさざえ》からより外は何もなかりき」とある。こういう風に、聯想の火薬に点火するための口火のようなものを巧みに選び出す伎倆は、おそらく俳諧における彼の習練から来たものではないかと思われる。もう一つの例は『一代女』の終りに近く、ヒロインの一代の薄暮、多分雨のそぼ降る折柄でもあったろう「おもひ出して観念の窓より覗《のぞ》けば、蓮《はす》の葉笠《はがさ》を着たるやうなる子供
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