方に著者の心理分析的な傾向を認めても不都合はないはずであろうと思われる。
 これらの心理的写実を馬琴や近松のそれと比べてみると後者の不自然さが目立って来るようである。後者等は大体において人間心理を伝統的理想の鋳型に嵌《は》めて活動させているとしか思われないのに反して、西鶴だけは自分自身の肉眼で正視し洞察し獲得した実証的素材を赤裸々に記録している傾向がある。
 西鶴の人間に関する観察帰納演繹の手法を例示するものとしてはまた『織留』中の「諸国の人を見しるは伊勢」に、取付虫《とりつきむし》の寿林《じゅりん》、ふる狸《だぬき》の清春《せいしゅん》という二人の歌比丘尼《うたびくに》が、通りがかりの旅客を一見しただけですぐにその郷国や職業を見抜く、シャーロック・ホールムス的の「穿《うが》ち」をも挙げておきたい。
 科学者としても理論的科学者でなくてどこまでも実験的科学者であった西鶴が、また人間の経験の習熟練磨の効果を尊重したのは当然のことである。そうした例としては『諸国咄』中の水泳の達人の話、蚤虱《のみしらみ》の曲芸の話、また「力なしの大仏」の色々の条項を挙げることが出来る。『桜陰比事』の「四つ五
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