画芸術家にも、いろいろの新しい可能性の暗示を授けるであろうと想像される。
たとえば、スクリーンの映像では、その空間的位置がちゃんと決定されているのに、音響のほうは、聞いただけでその音源の位置を決定する事ができない。この事がいろいろ問題になっているが、文楽でこの問題はつとに解決されている。すなわち、たとえば、酒屋の段のお園《その》が手紙をさして「ふ、う、ふ、と書いてある」というところがある。その音源はお園からは十メートル近くも離れた上手《かみて》の太夫《たゆう》の咽喉《のど》と口腔《こうこう》にあるのであるが、人形の簡単なしかし必然的な姿態の吸引作用で、この音源が空中を飛躍して人形の口へ乗り移るのである。この魔術は、演技者がもしも生きた人間であったら決してしとげられないであろうと想像される。
もし、人間の扮《ふん》したお園が人形のお園と精密に同じ身ぶりをしたとしたら、それはたぶん唖者《あしゃ》のように見えるか、せいぜいで、人形のまねをしている人間としか見えないであろう。しかるに人形のお園は太夫の声を吸収同化してかえってほんとうのお園そのものになりきってしまうのである。ここに人形劇の不思議があり、秘密がある。この秘密こそ発声映画研究家のまじめに研究し解決すべきものであろう。この現象の原因はどこにあるか、それは自分にはまだよくわからない、しかし、次のようなことも考えられる。
われわれは人形が声を発しない事を知っている。しかし人形の表情の暗示によってそれが声を発してくれる事を要求している。その要求に適合しうべき声がどこかから聞こえてくるとすれば、その声はひとりでに人形に乗り移ってしまう。ところが、これが人間の役者の場合だとそうは行かない。われわれは人間が声を発しうることを知っている。のみならず、その声がどこから、どういうふうに聞こえなければならぬかを熟知し期待している。それが、ちがった見当から、ちがったふうに聞こえてくると、結果は当然幻滅であり矛盾である。これは自然なものと不自然なものとの衝突から生じる破綻《はたん》である。要するにわれわれが人形の声を知らぬことがこの秘密のかぎであるのではないか。
これに似たことは映画の発声漫画においてしばしば発見されるかと思う。たとえば黒い線だけで描いた漫画の犬が妙な声をだして何か歌うとする、これが本物の犬の映像だとはなはだ困るで
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