う。泣き伏すところなどでも肩の運動一つでその表情の特徴が立派に表現される。見ているものは熱い呼吸を感じ心臓の鼓動を聞くことができるのである。
 このように無生の人形に魂を吹き込む芸術が人形使いの手先にばかりあるわけではない。舞台の右端から流れだす義太夫《ぎだゆう》音楽の呼気がかからなければ決してあれだけの効果を生ずることはできないのはもちろんである。それかといって、人形の演技は決してこの音楽のただの伴奏ではなくて、聴覚的音楽に対する視覚的音楽の対位法であり、立派な合奏である。もっともこの関係は歌舞伎《かぶき》でも同様なわけであろうが、人形芝居において、それがもっとも純化され高調されているように思われるのである。
 次の幕は「葛《くず》の葉《は》の子別れ」であった。畜生の人間的恩愛を描いたこの悲劇の不思議な世界の不思議な雰囲気《ふんいき》も、やはり役者が人形であるがためにかえっていっそう濃厚になり現実的になるからおもしろいのである。
 最後に「爆弾三勇士」があったが、これも前に一見した新派俳優のよりもはるかにおもしろく見られた。人間がやっていると思うと、どうしても感じる矛盾や不自然さが、人形だと、そう感じられない。あれで、もし背景などをもう少しくふうしてあれほど写実的にしなかったら、いっそう良い効果を得られはしなかったかと思われたのであった。
 こういう新しいものを人形芝居に取り入れることについては異存のある人が多いようであるが自分はそうは思わない。もっと遠慮なく取りいれてみてもいいだろうと思う。見なれないうちは少しおかしくても、それはかまわない。百年の後には「金色夜叉《こんじきやしゃ》」でも「不如帰《ほととぎす》」でもやはり古典になってしまうであろう、義太夫《ぎだゆう》音楽でも時とともに少しずつその形式を進化させて行けば「モロッコ」や「街《まち》の灯《ひ》」の浄瑠璃化《じょうるりか》も必ずしも不可能ではないであろう。こんな空想を帰路の電車の中で描いてみたのであった。
 このはじめて見た文楽の人形芝居の第一印象を、近ごろ自分が興味を感じている映画芸術の分野に反映させることによってそこに多くの問題が喚起され、またその解決のかぎを投げられるように思われる。特に発声映画劇と文楽との比較研究はいろいろのおもしろい結果を生むであろうと思われる。そうしてその結果は人形芸術家にも映
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