かったので、まず何よりもその点が自分の好奇的な注意をひいた。まず鴨居《かもい》からつるした障子や木戸の模型がおもしろかった。次におもしろいと思ったのは、舞台面の仮想的の床《ゆか》がずっと高くなり、天井がずっと低くなって天地が圧縮され、従って縮小された道具とその前に動く人形との尺度の比例がちょうど適当な比例になっているために、人形のほうが現実性を帯びるとともに人形使いのほうがかえって非現実的になってくるということである。そのため人形のほうが人間になり、人間のほうが道具になっているのである。
 見ない前にはさだめて目ざわりになるだろうと予期していた人形使いの存在が、はじめて見たときからいっこう邪魔に感ぜられなかったのは全くこの尺度の関係からくる錯覚のおかげらしい。黒子《くろこ》を着た助手などはほとんどただぼやけた陰影ぐらいにしか見えないのである。
 酒屋の段は、こんな事を感心しているうちにすんでしまった。次には松王丸《まつおうまる》の首実検である。最初に登場する寺子屋の寺子らははなはだ無邪気でグロテスクなお化けたちであるが、この悲劇への序曲として後にきたるべきもののコントラストとしての存在である以上は、こうした粗末な下手《へた》な子供人形のほうが、あるいはかえって生きたよだれくりどもよりよいともいわれる。
 松王丸《まつおうまる》の松王丸らしいのに驚かされた。人間の役者の扮《ふん》した松王丸の中には、どうしても、その役者が隠れていて、しかも大いにのさばっているために、われわれは浄瑠璃《じょうるり》の松王丸を見るかわりに俳優何某の松王丸しか見ることができないのであるが、この人形の松王丸となると、それが正真正銘の浄瑠璃の世界から抜けだして来た本物の松王丸そのものになっている。つまり絶対の松王丸になっているのである。そうしてそれがそれほど誇張されない身ぶりの運動のモンタージュによって、あらゆる悲痛の腹芸を演ずるからおもしろいのである。
 松王丸の妻もよくできていた。源蔵《げんぞう》の妻よりもどこか品格がよくて、そうして実にまた、いかなる役者の女形《おんながた》がほんとうの女よりも女らしいよりもさらにいっそうより多く女らしく見える。女の人形の運動は男のよりもより多く細かな曲線を描くのはもとより当然であるが、それが人形であるためにそういう運動の特徴がいっそう抽象示揚されるのであろ
前へ 次へ
全8ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング