あろうが、映画の犬だとそれがきわめて自然なことであり、その歌はほんとうに線画の犬が歌っているとしか思われない。不自然と不自然が完全に調和するのである。これも畢竟《ひっきょう》、われわれが絵の犬の声を持たない事を知っているからである。それにかかわらずわれわれの視覚からくる暗示は必然にこれが何かしら歌うべきことを要求する。そこへ響いて来る歌の声が、たとえライオンのような声であっても、それはやはりその映画の犬の歌らしくしか聞かれないであろう。映画の犬は決して犬ではないからこそこういう事が可能である。
これと連関して考えられることは、人形の顔の表情のことである。かつてどこかで、人形の顔は何ゆえにあんなにグロテスクでなければならぬかということに関する三宅周太郎《みやけしゅうたろう》氏の所論を読んで非常におもしろいと思ったことがあった。今はじめて人形芝居を実見して、なるほどと思い当たるのであった。なるほど、もしも人形の顔なりからだなりが、あまりに平凡な写実的のものであったとしたら、おそらく人形の劇的表情は半分以上消えてしまうであろうのみならず、不自然、非写実的な環境の中に孤立した写実は全く救い難い破綻《はたん》を見せるであろう。
女形《おんながた》が女よりも女らしく、人形の女形のほうが生きた女形よりもさらに女らしいという事実にも、やはり同じような理由があるのではないか。もともと男は決して女にはなれない。それだから女形の男優は、女というものの特徴を若干だけ抽象し、そうしてそれだけを強調して表現する。無生の人形はさらにいっそう人間の女になれるはずがない。それだからさらにいっそうこれらの特徴を強調する。その不自然な強調によって「個々の女」は消失する代わりに「抽象された女それ自体」が出現するであろう。
この抽象と強調とアクセンチュエーションは、人形の顔のみならず、その動作にも同じ程度に現われる事はもちろんである。たとえば、すすり泣く女の肩の運動でも、実際の比例よりも郭大された振幅で行なわれる。人間の役者の場合だったら、かえって滑稽《こっけい》になるだろうと思われるこの強調が、人形だときわめて自然に見える。そうして、そのすすりなきの現象が、現実以上に現実的に表現されるのである。
人形の顔とその動作の強調の必要は、一つにはまた観客と人形との距離からも起こってくる。これと反対の場合は
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