随筆難
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)自家撞着《じかどうちゃく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]
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 随筆は思ったことを書きさえすればよいのであるから、その思ったことがどれほど他愛のないことであっても、またその考えがどんなに間違った考えであっても、ただ本当にそう思ったことをその通り忠実に書いてありさえすればその随筆の随筆としての真実性には欠陥はないはずである。それで、間違ったことが書いてあれば、読者はそれによってその筆者がそういう間違ったことを考えているという、つまらない事実ではあるがとにかく、一つの事実を認識すればそれで済むのである。国定教科書の内容に間違いのある場合とはよほどわけがちがうのではないかと思われる。尤も、いわゆる随筆にも色々あって、中には教壇から見下ろして読者を教訓するような態度で書かれたものもあり、お茶をのみながら友達に話をするような体裁のものもあり、あるいはまた独り言ないし寝言のようなものもあるであろうが、たとえどういう形式をとったものであろうとも、読者としては例えば自分が医者になって一人の患者の容態を聞きながらその人の診察をしているような気持で読めば一番間違いがないのではないかと思われる。随筆など書いて人に読んでもらおうというのはどの道何かしら「訴えたい」ところのある場合が多いであろうと思われる。
 少なくも、自分の場合には、いつもただその時に思ったことをその通りに書いてゆくだけであるから、色々間違ったことを書いたり、また前に書いたことと自家撞着《じかどうちゃく》するように見えることを平気で書いたりしている場合がずいぶん多いことであろうと思われる。読者のうちにはそういうことに気がついている人は多いであろうが、わざわざ著者に手紙をよこしたりあるいは人伝《ひとづ》てに注意をしてくれる人は存外きわめて稀である。
 つい先達《せんだっ》て「歯」のことを書いた中に「硬口蓋《こうこうがい》」のことを思い違えて「軟口蓋」としてあったのを手紙で注意してくれた人があったが、こういうのは最も有難い読者である。
 ずっと前の話であるが、『藪柑子集《やぶこうじしゅう》』中の「嵐」という小品の中に、港内に碇泊《ていはく》している船の帆柱に青い火が灯《とも》っているという意味のことを書いてあるのに対して、船舶の燈火に関する取締規則を詳しく調べた結果、本文のごとき場合は有り得ないという結論に達したから訂正したらいいだろうと云ってよこした人があった。しかしそれは訂正しないでそのままにしておいた。この小品は気分本位の夢幻的なものであって、必ずしも現行の法令に準拠しなければならない種類のものでもないし、少なくも自分の主観の写生帳にはちゃんと青い燈火が檣頭《しょうとう》にかかったように描かれているから仕方がないと思ったのである。
 去年の暮には、東京の某病院の医員だという読者から次のような抗議が来た。
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「(前略)然《しか》る処《ところ》続冬彦集六八頁第二行に、『速度の速い[#「速い」に白丸傍点]云々(速度の大きい[#「大きい」に白丸傍点]に非ず)』と有之《これあ》り之《これ》は素人なら知らぬ事物理学者として云ふべからざる過誤と存じ候、次の版に於ては必ず御訂正あり度《た》し 失礼を顧みず申上ぐる次第に御座候 敬具」
[#ここで字下げ終わり]
 なるほど、物理学では速度の大小というのが正当で、遅速をいうならば運動の遅速とでもいわなければ穏当でないかと思われる。それでもしこれが物理学の教科書か学術論文の中の文句であるとすれば当然改むべきはずであるが、随筆中の用語となると必ずしも間違いとは云われないかもしれない。紺屋の白袴、医者の不養生ということもあるが、物理の学徒等が日常お互いに自由に話し合う場合の用語には存外合理的でないものが多数にあって、問題の「速度のはやい」などもその一例である。この場合の「速度」は俗語の「はやさ」と同義であって術語のヴェロシティーと同じではないのである。例えばまた「のろい週期」などという言葉も平気で使うが「長い週期」というよりも日常会話にはこの方が実感があるから自然にそんな用例が出来るのであろうと思われる。「のろい振動の長い週期」を略して「帝展」「震研」流に云ったものと思えば不思議はないのである。従って、「速度のはやい」なども実感を強めるための俗語として「速度の大なるすなわち運動の速い」の略語として通用を許してもそれがために物理学は何の損害をも受ける心配はないかと思われる。それで、負惜しみのようではある
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