が、物理学を専攻する人間でも、座談や随筆の中ではいくらか自由な用語の選択を寛容してもらいたいと思うのである。
この抗議のはがきの差出人は某病院外科医員花輪盛としてあった。この姓名は臨時にこしらえたものらしい。
この三月にはまた次のような端書《はがき》が来た。
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「始めて貴下の随筆『柿の種』を見初めまして今32[#「32」は縦中横]頁の鳥や魚の眼の処へ来ました、何でもない事です。試みに御自分の両眼の間に新聞紙を拡げて前に突き出して左右の眼で外界を御覧になると御疑問が解決せられるのです。御試みありたし、(下略)」
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魚や鳥のように人間の両眼の視界がそれぞれに身体の左右の側の前後に拡がっていたとしたら吾人《ごじん》の空間観がどんなものになるかちょっと想像することが六ヶしいという意味のことを書いたのに対して、こういう実験をすすめられたのである。しかし人間の両眼が耳の近所についていない限り、いくらこういう実験をしてみたところで自分の疑問は解けそうもない。
この端書をよこした人も医者だそうである。以上の外にもこれまで自分の書いたものについて色々の面白いことを知らせてくれた人には医師が一番多いようである。やはり職掌柄で随筆を読むにも診察的な気持があるせいであろうが、とにかくこういう読者は自分などの書くような随筆にとっては一番理想的な読者であろうと思われる。それだから自分も患者の気持になってちょっとだだをこねてみた次第である。
上記のごとき自由な気持で読んでくれる読者とちがって自分の一番恐縮するのは小中学の先生で、教科書に採録された拙文に関して詳細な説明を求められる方々である。
「常山《くさぎ》の花《はな》」と題する小品の中にある「相撲取草」とは邦語の学名で何に当るかという質問を受けて困ってしまって同郷の牧野富太郎博士の教えを乞うてはじめてそれが「メヒシバ」だということを知った。その後の同様な質問に対しては、さもさも昔から知っていたような顔をして返答することが出来た。ところがある地方の小学校の先生で、この「相撲取草」が何であるかということを本文の内容から分析的に帰納《きのう》演繹《えんえき》して、それがどうしても「メヒシバ」でなければならないという結論に達した、その推理の径路を一冊の論文に綴って、それにこの植物の※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]葉《さくよう》まで添えたものを送ってよこされた人があって、すっかり恐縮してしまったことがあった。こうなると迂闊《うかつ》に小品文や随筆など書くのはつつしまなければならないという気がしたのであった。
ある時はまたやはり「花物語」の一節にある幼児のことを、それが著者のどの子供であるかという質問をよこした先生があった。その時はあまり立入った質問だと思ったのでつい失礼な返事を出してしまった。理科の教科書ならばとにかく多少でも文学的な作品を児童に読ませるのに、それほど分析的に煩雑な註解を加えるのは却って児童のために不利益ではないかと思うというようなことを書き送ったような気がする。これは後で悪かったと思った。
以上挙げたような諸例はいずれも著者にとっては有難い親切な読者からの反響であるが稀には有難くない手紙をくれる人もある、例えば、昨年であったか、ある未知の人から来た手紙を読んでみると、先ず最初に自分の経歴を述べ、永年新聞社の探訪係を勤めていたということを書いたあとで、小説家や戯曲家はみんなどこかから種を盗んで来てそれを元にして自分の原稿をこしらえるのだが、自分は知名の文士の誰々の種の出所をちゃんと知っている、と云ったようなことを書きならべ、貴下の随筆も必ず何か種の出所があるだろうというようなことを婉曲《えんきょく》に諷《ふう》した後に、急に方向を一転して自分の生活の刻下の窮状を描写し、つまりは若干の助力に預りたいという結論に到達しているのであった。筆跡もなかなか立派だし文章も達者である。こんな手紙よりもその人の多年の探訪生活の記録をかかせたらきっと面白いであろうと思われた。それはとにかくこの人の云う通り、自分なども五十年来書物から人間から自然からこそこそ盗み集めた種に少しばかり尾鰭《おひれ》をつけて全部自分で発明したか、母の胎内から持って生れて来たような顔をして書いているのは全くの事実なのである。
人から咎められなくても自分でも気が咎めるのは、一度どこかで書いたような事をもう一度別の随筆の中で書かなければ工合の悪いようなはめになった時である。尤もそれ自身では同じ事柄でも前後の関係がちがって来ればその内容もまたちがった意義をもって来ることは可能であるが、そういう場合でも同じ読者が見ればきっと「またか」と思うに相違ない。
現に自分でも他人の書い
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