た。そこで惜しいところで映画はふっと消滅してしまった。
 私はなんだか恐ろしいものを見たような気がした。つまらない草花がみんな「いきもの」だという事をこれほど明白に見せつけられたのは初めてであった。
 日常見慣れた現象をただ時間の尺度を変えて見せられただけの事である。時の長短という事はもちろん相対的な意味しかない。蜉蝣《かげろう》の生涯《しょうがい》も永劫《えいごう》であり国民の歴史も刹那《せつな》の現象であるとすれば、どうして私はこの活動映画からこんなに強い衝動を感じたのだろう。
 われわれがもっている生理的の「時」の尺度は、その実は物の変化の「速度」の尺度である。万象が停止すれば時の経過は無意味である。「時」が問題になるところにはそこに変化が問題になる四元世界の一つの軸としてのみ時間は存在する。
 ところがこの生理的の速度計はきわめて感じの悪いものである。ある度以下の速度で行なわれる変化は変化として認める事ができない。これはまた吾人《ごじん》が個々の印象を把持《はじ》する記憶の能力の薄弱なためとも言われよう。
 忘却という事がなかったら記憶という事は成り立たないと心理学者は言う。忘
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