春寒
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)簒奪《さんだつ》

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(例)[#地から3字上げ](大正十年一月、渋柿)
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 スカンジナヴィアの遠い昔の物語が、アイスランド人の口碑に残って伝えられたのを、十二世紀の終わりにスノルレ・スツール・ラソンという人が書きつづった記録が Heimskringla という書物になって現代に伝えられている。その一部が英訳されているのをおもしろそうだと思って買って来たまま、しばらく手を触れないで打っちゃっておいた。
 ことしの春のまだ寒いころであった。毎日床の中に寝たきりで、同じような単調な日を繰り返しているうちに、ふと思い出してこの本を読んでみた。初めの半分はオラーフ・トリーグヴェスソンというノルウェーの王様の一代記で、後半はやはり同じ国の王であったが、後にセント・オラーフと呼ばれた英雄の物語である。
 大概は勇ましくまた殺伐な戦闘や簒奪《さんだつ》の顛末《てんまつ》であるが、それがただの歴史とはちがって、中にいろいろな対話が簡潔な含蓄のある筆で写されていたり、繊細な心理が素朴《そぼく》な態度でうがたれていたりするのをおもしろいと思った。それから一つの特徴としては、王の軍中に随行して、時々の戦《いくさ》の模様や王の事蹟《じせき》を即興的に歌った詩人(Scalds)の歌がところどころにはさまれている事である。それがために物語はいっそう古雅な詩的な興趣を帯びている。
 日本に武士道があるように、北欧の乱世にはやはりそれなりの武士道があった。名誉や信仰の前に生命を塵埃《じんあい》のように軽んじたのはどこでも同じであったと見える。女にも烈婦があった。そしてどことなくイブセンの描いたのに似たような強い女も出て来た。さすがにワルキリーの国だと思われたりした。
 オラーフ・トリーグヴェスソンが武運つたなく最後を遂げる船戦《ふないくさ》の条は、なんとなく屋島《やしま》や壇《だん》の浦《うら》の戦《いくさ》に似通っていた。王の御座船「長蛇《ちょうだ》」のまわりには敵の小船が蝗《いなご》のごとく群がって、投げ槍《やり》や矢が飛びちがい、青い刃がひらめいた。盾《たて》に鳴る鋼《はがね》の音は叫喊《きょうかん》の声に和して、傷ついた人は底知れぬ海に落ちて行った。……王の射手エーナール・タンバルスケルヴェはエリック伯をねらって矢を送ると、伯の頭上をかすめて舵柄《だへい》にぐざと立つ。伯はかたわらのフィンを呼んで「あの帆柱のそばの背の高いやつを射よ」と命ずる。フィンの射た矢は、まさに放たんとするエーナールの弓のただ中にあたって弓は両断する。オラーフが「すさまじい音をして折れ落ちたのは何か」と聞くと、エーナールが「王様、あなたの手からノルウェーが」と答えた。王が代わりに自分の弓を与えたのを引き絞ってみて「弱い弱い、大王の弓にはあまり弱い」と言って弓を投げ捨て、剣と盾《たて》とを取って勇ましく戦った。――私は那須与一《なすのよいち》や義経《よしつね》の弓の話を思い出したりした。
 私がこの物語を読んでいた時に、離れた座敷で長女がピアノの練習をやっているのが聞こえていた。そのころ習い始めたメンデルスゾーンの「春の歌」の、左手でひく低音のほうを繰り返し繰り返しさらっていた。八分の一の低音の次に八分の一の休止があってその次に急速に駆け上がる飾音のついた八分の一が来る。そこでペダルが終わって八分の一の休止のあとにまた同じような律動が繰り返される。
 この美しい音楽の波は、私が読んでいる千年前の船戦《ふないくさ》の幻像の背景のようになって絶え間なくつづいて行った。音が上がって行く時に私の感情は緊張して戦の波も高まって行った。音楽の波が下がって行く時に戦もゆるむように思われた。投《な》げ槍《やり》や斧《おの》をふるう勇士が、皆音楽に拍子を合わせているように思われた。そして勇ましいこの戦《いくさ》の幻は一種の名状し難い、はかない、うら悲しい心持ちのかすみの奥に動いているのであった。
 今はこれまでというので、王と将軍のコールビオルンは舷《ふなばた》から海におどり入る。エリックの兵は急いで捕えようとしたが、王は用心深く盾《たて》を頭にかざして落ち入ったので捕える事ができなかった。盾《たて》を背にしていた将軍は盾の上に落ちかかり、沈む事ができなかったために虜《とりこ》となった。
 王はこの場で死んだと思われた。しかし泳ぎの達人であった王は、盾の下で鎖帷子《くさりかたびら》を脱ぎ捨てここを逃げのびてヴェンドランドの小船に助けられたといううわさも伝えられた。ともかくも王の姿が再びノルウェーに現われなかったのは事実である。
 すぐれた英雄の戦没した後に、こうい
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