ううわさの生まれたのはいつの世でも同じだと思われる。この戦《いくさ》を歌った当時の詩人の歌の最後の句にも「人はその願う事をやがて信ずる」と言っている。
 ピアノの音はこの物語の終わりまでつづいて行った。読み終わった本を枕《まくら》もとへ置いて、蒲団《ふとん》をかぶって聞いていると、音楽の波に誘われて物語の幻は幾度となく繰り返し繰り返し現われた。そしてこの王の運命の末路のはかなさがなんとなしに身にしみるようであった。
 その後にまたつづけて書物の後半になっているセント・オラーフの一代記を読んだ。
 向こうところに敵なくして剣の力で信仰と権勢を植え付けて行った半生の歴史はそれほど私の頭に今残っていないが、全盛の頂上から一時に墜落してロシアに逃げ延び、再びわずかな烏合《うごう》の衆を引き連れてノルウェーへ攻め込むあたりからがなんとなく心にしみている。そのころから王の周囲には一種の神秘的な影がつきまとっていて不思議な幻を見たり、さまざまな奇蹟《きせき》を現わしている。
 スチクレスタードの野の戦《いくさ》の始まる前に、王は部下の将卒の団欒《だんらん》の中で、フィン・アルネソンのひざを枕《まくら》にしてうたた寝をする。敵車が近寄るのでフィンが呼びさますと、「もう少し夢のつづきを見せてくれればよかったのに」と言ってその夢の話をして聞かせる。高い高い梯子《はしご》が立ってその上に天の戸が開けていた、王がそれを登りつめて最後の段に達した時に起こされたのだと言う。フィンは、その夢が王の思うほどよい夢ではない、眠りの不足のせいでなければそれは王の身の上にかかる事だと言った。
 王は黄金を飾った兜《かぶと》をきて、白地に金の十字をあらわした盾《たて》と投《な》げ槍《やり》とを持ち、腰にはネーテと名づける剣を帯び、身には堅固な鎖帷子《くさりかたびら》を着けていた。
 美しい天気であったのが、戦《いくさ》が始まると空と太陽が赤くなって、戦の終わるころには夜のように暗くなったと伝えられている。天文学者の計算によるとその日に日食はなかったはずだという事である。
 戦いは王に不利であった。……王はトーレ・フンドに切りつけたが、魔法の上着は切れなかった。そしてトーレの着たとなかいの皮からぱっと塵《ちり》が飛び散った。王は将軍のビオルン(熊《くま》)に「鋼鉄のかみつけないこの犬(フンド)はお前が仕止めてくれ」と言った。ビオルンは斧《おの》をふるってその背を鎚《つち》にして敵の肩を打つとフンドはよろめいて倒れんとした。トールスタイン・クナーレスメドは斧で王を撃って左のひざの上を切り込んだ。……王がよろめき倒れてかたわらの石によりかかり、神の助けを祈っているところへ敵将が来て首と腹を傷つけた。
 戦いが終わってトーレ・フンドは王の死骸《しがい》を地上に延ばして上着を掛けた。そして顔の血潮をぬぐって見ると頬《ほお》は紅を帯びて世にも美しい顔ばせに見えた。王の血がフンドの指の間を伝い上って彼の傷へ届いたと思うと、傷は見るまに癒合《ゆごう》して包帯しなくてもよいくらいになった。……王の遺骸はそれから後もさまざまの奇蹟《きせき》を現わすのであった。
 私がこのセント・オラーフの最期の顛末《てんまつ》を読んだ日に、偶然にも長女が前日と同じ曲の練習をしていた。そして同じ低音部だけを繰り返し繰り返しさらっていた。その音楽の布《し》いて行く地盤の上に、遠い昔の北国の曠《ひろ》い野の戦いが進行して行った。同じようにはかないうら悲しい心持ちに、今度は何かしら神秘的な気分が加わっているのであった。
 忠義なハルメソンとその子が王の柩《ひつぎ》を船底に隠し、石ころをつめたにせの柩を上に飾って、フィヨルドの波をこぎ下る光景がありあり目に浮かんだ、そうしてこの音楽の律動が櫂《かい》の拍子を取って行くように思われた。
 その後にも長女は時々同じ曲の練習をしていた。右手のほうでひいているメロディだけを聞くとそれは前から耳慣れた「春の歌」であるが、どうかして左手ばかりの練習をしているのを幾間《いくま》か隔てた床《とこ》の中で聞いていると、不思議に前の書中の幻影が頭の中によみがえって来て船戦《ふないくさ》の光景や、セント・オラーフの奇蹟《きせき》が幾度となく現われては消え、消えては現われた。そして音の高低や弛張《しちょう》につれて私の情緒も波のように動いて行った。異国の遠い昔に対するあくがれの心持ちや、英雄の運命の末をはかなむような心持ちや、そう言ったようなものが、なんとなく春の怨《うらみ》を訴えるような「無語歌」と一つにとけ合って流れ漂って行くのであった。
 そして今でもこの曲を聞くと、蒲団《ふとん》の外に出して書物をささえた私の指先に、しみじみしみ込むようであった春寒をも思い出すのである。
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