里に帰った頃は重兵衛さんの家は宅《うち》のすぐ東隣の邸に移っていた。まもなく重兵衛さんは亡くなってそのうちに息子の楠さんは細君を迎えて新家庭をつくった。新婚後まもないことであったと思う。ある日宅の女中が近所の小母《おば》さん達二、三人と垣根から隣を透見《すきみ》しながら、何かひそひそ話しては忍び笑いに笑いこけているので、自分も好奇心に駆られてちょっと覗いてみると、隣の裏庭には椅子を持出してそれに楠さんが腰をかけている。その傍に立った丸髷《まるまげ》の新婦が甲斐甲斐《かいがい》しく襷掛《たすきが》けをして新郎のために鬚《ひげ》を剃ってやっている光景がちらと眼前に展開した。透見の女性達の眼には、その光景が、何かひどく悪い事でもしている現場を見届けでもしたように、とにかく笑うべく賤しむべきこととして取扱われているらしかった。しかし当時の自分にはその光景がひどく美しく長閑《のどか》なものに思われ、そうして女中等のそういう態度に対して少なからず不満を懐《いだ》いたようであった。
その後重兵衛さんの一家がどうなったか。これに関する自分の記憶は実に綺麗に拭《ぬぐ》われたように消えてしまっている。た
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